秀吉に降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)
詳細は「四国攻め#羽柴秀吉の四国攻め(四国の役)」を参照 天正13年(1585年)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。 秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された(四国国分)。元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。これを機に蜂須賀正勝・家政が長宗我部氏の取次になったとされるが、取次としての実態が不明なために疑問視する研究者もいる。また増田長盛を取次とする説もある。
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