秀吉包囲網の瓦解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 05:02 UTC 版)
「小牧・長久手の戦い」の記事における「秀吉包囲網の瓦解」の解説
信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより、天正13年(1585年)8月までに制圧されることになる。 また、天正12年(1584年)11月23日、佐々成政が自領・富山を発し、雪深い立山を越えて(さらさら越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、翌天正13年(1585年)8月の富山の役で秀吉に降伏した。 これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなったが、この頃の秀吉は、家康を武力により討伐することを諦めず、家康征伐を公言していた。
※この「秀吉包囲網の瓦解」の解説は、「小牧・長久手の戦い」の解説の一部です。
「秀吉包囲網の瓦解」を含む「小牧・長久手の戦い」の記事については、「小牧・長久手の戦い」の概要を参照ください。
- 秀吉包囲網の瓦解のページへのリンク