秀吉時代の活躍とは? わかりやすく解説

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秀吉時代の活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:50 UTC 版)

大谷吉継」の記事における「秀吉時代の活躍」の解説

秀吉織田家重臣である柴田勝家対立決定的となり、吉継はこの時期秀吉美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年1583年)に賤ヶ岳の戦い起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊調略して内応させた。。 天正13年1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍し最後まで抵抗続け紀州勢の杉本荒法師で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉伊勢長島城に移った織田信雄祝い赴いた際にも同行している。文書発給この頃から見え称名寺寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している。 また7月以前に、キリスト教改宗していたとされ、宣教師ガスパル・コエリョ秀吉訪問した時には安威了佐(あい りょうさ)と共にコエリョ果物干柿持参している。これは1586年天正14年)にフロイス当時インド管区長ヴァリニャーノ宛てて送った報告書 の中でキリシタンであると書かれている「キノスケ殿」が、キノスケ(紀之介)とも呼ばれていた大谷吉継であると村上直次郎松田毅一 らが同定しいるからであるが、ミカエル・シュタイシェン切支丹大名』や結城了悟キリシタン大名一覧」には吉継の名は挙がっていない。 同年7月11日秀吉近衛前久猶子となって従一位関白叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるうになるこの頃から、本来違い鷹の羽であった家紋対い変更したという。9月には秀吉有馬温泉湯治石田三成ら他の近臣と共に同行している(『宇野主水日記』)。 天正14年1586年)の九州征伐では、兵站奉行石田三成の下、功績立てた同年三成堺奉行任じられると、その配下として実務担当した毛利輝元著した『輝元上洛日記』には天正16年1588年)に輝元が上洛した際、世話になった挨拶周りをした豊臣家諸大名の名とそれぞれへの献上品細かく記されており、下巻大谷の名も見える。この時点奉行格に列していたことが分かる天正17年1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ敦賀城主となる。吉継は蜂屋頼隆築いた敦賀城現在の敦賀市結城町三島町)を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝城主になっており、天守は秀勝時代完成していた説もある。笙ノ川・児屋ノ川の二川境界として町立てを行い町割川西・川中・川東三町改めた天正18年1590年)の小田原征伐にも従軍し続いて奥州仕置にも従軍し出羽国検地担当した。この時、蠣崎慶広面会し独立の承認豊臣政権への臣従について助力依頼されている。検地においては配下代官抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆発生したが、上杉景勝支援要請し鎮圧した帰還後南条郡丹生郡今立郡々六三か2万6,944石を加増され、このころいわゆる敦賀5万石」を領することとなる。 文禄元年1592年)から始まる秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)では船奉行軍監として船舶調達物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し勲功立てている。同年6月には秀吉命令奉行衆一人として長谷川秀一前野長康木村重茲加藤光泰石田三成増田長盛と共に渡海し、特に大谷・石田・増田三人秀吉指令受けて朝鮮諸将指導にあたると共に現地報告取り纏めた。明との和平交渉でも、明使(謝用徐一貫)を伴って石田増田と共に一時帰国し、文禄2年1593年5月23日名護屋城秀吉と明使との面会果たしたその後再度朝鮮渡海したが、6月晋州城攻防戦晋州城を攻略する戦局和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した最終的に決裂した和平では、明国秀吉冊封際し、吉継は石田三成小西行長宇喜多秀家増田長盛とともに大都督の官位を受けることになっていた。 文禄2年朝鮮からの帰還際し9月吉日付けでに大宰府天満宮一対鶴亀文懸鏡を奉納しており、この鏡は現存している。一つの銘には吉継の名が、もう一方の銘には「東・小石・徳・小屋」という4人の女性名列挙されている。この東は吉継の母親東殿であり、小石・徳・小屋については諸説あるが、吉継の家族であろう考えられる文禄3年1594年)には草津湯治赴いており、直江兼続宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状送っている。慶長2年1597年9月24日秀吉徳川家康富田知信織田有楽斎らを伴い伏見大谷邸に訪問した。吉継は豪勢な饗宴出迎えた慶長3年1598年6月16日豊臣秀頼中納言叙任祝いには病をおして参列し秀吉から菓子賜った慶長4年1599年)には神龍院梵舜女能見物しており、病状好転うかがえる

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