秀吉死後
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慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると豊臣政権内で武断派と文治派の対立、及び五大老五奉行らの内紛が始まる。陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近していたとみられる。慶長5年(1600年)の会津征伐に参加を求める家康の書状に応えて兵を招集し、立て続けて関ヶ原の戦いが起きると中山道と北国街道を結ぶ交通の要所である小諸を引き続き鎮撫している。因みに嫡男とされていた次男の仙石秀範は独断で西軍に与した事から勘当されている。 信濃に徳川秀忠が着陣するとこれを単騎で出迎え、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いで城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。所領面では旧領を安堵され、幕藩体制において信濃小諸藩の初代藩主となった。 慶長6年(1601年)、諱を秀久に戻している。 小諸藩主としての秀久は熱心に領地の開拓や整備に取り組み、先に述べた小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、小諸城を近代城郭として完成させた。特に大手門は歴戦の武人らしく華美な装飾を省き、慶長風の質実剛健な作りとなっている。八幡宮(八幡神社)の勧進や街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残し、笠取垰と小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績といえる。一方で大規模な開拓事業の為に農民達には過酷な課役を与えてしまい、佐久郡では一郡逃散という事態が起きている。しかし、その後は農民の逃亡を防ぐ農村復興策として、年貢の減額・猶予による農民の帰還や、農村の有力者に恩給を与えて家臣化するなど改善策に取り組み、後に藩主となった三男の忠政も逃散した農民達への帰還を呼びかけている。 幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分とも言える程の待遇で扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸に参府する時は例外的に道中の妻子同伴が許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。慶長13年(1608年)の冬には秀忠が江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されている。慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去した。享年63(もしくは64)。遺骸は小諸の西念寺で荼毘に付され、墓所が複数存在する事から分骨が行われたと考えられる。『改選仙石家譜』ではその内の一つである芳泉寺の墓所を正式な霊廟としている。家督は三男・忠政が継いだ。
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秀吉死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)
豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を行う。婚約した娘は、全て家康の養女とし、その内容は次の通りである。 伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。 松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。 蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。 水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。 保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。 このころより家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は後述する伏見城治部少丸の直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城へ移ることでこの一件は和解となった。 3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内治部少丸にある自身の屋敷に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退任を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。もっとも、家康と三成は対立一辺倒ではなく協調を模索する時期もあり、家康は中立的な立場からの解決して双方の均衡を保とうとしたが、それが却って政争を悪化させたとする見方もある。 9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。 9月13日付毛利秀元宛輝元書状には、家康が大坂入りした理由として次の3つを挙げている。 秀忠が江戸へ下向したため正室お江と離れるので、彼女以外の女性が秀忠の子を生む可能性があり両者の仲が悪くなるのを避けるため、お江も下向させようとしたが淀殿周辺から反対されたこと。 後陽成天皇が譲位の意向を示したが、秀吉の遺言とは異なる子を指名したため、家康が譲位の断念を申し入れざる得なかったこと。 秀吉遺言で東国の大名は大坂、西国の大名は伏見にいることが求められたが、宇喜多秀家は大坂に留まったため家康の抗議で伏見に移ることを承諾したが、同様の者がまだ複数いること。 9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出し、出兵は取りやめとなる。これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。 またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。 対馬国の宗義智に1万石を加増。その家臣の柳川智永を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)。 遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に越前国・府中5万石を加増。 美濃国・金山7万石の森忠政を信濃国・川中島13万7,000石に加増移封。 丹後国・宮津の細川忠興に豊後国・杵築6万石を加増。 薩摩国・大隅の島津義久に5万石を加増。 慶長5年(1600年)3月、豊後国に南蛮船(オランダ船)のリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された。
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