秀吉死後とは? わかりやすく解説

秀吉死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:25 UTC 版)

仙石秀久」の記事における「秀吉死後」の解説

慶長3年1598年8月秀吉薨去すると豊臣政権内で武断派文治派対立、及び五大老五奉行らの内紛が始まる。陣借り大恩がある家康懇意であった秀久は早くから徳川氏接近していたとみられる慶長5年1600年)の会津征伐参加求め家康書状応えて兵を招集し立て続け関ヶ原の戦い起きると中山道北国街道を結ぶ交通の要所である小諸引き続き鎮撫している。因みに嫡男とされていた次男仙石秀範独断西軍与した事から勘当されている。 信濃徳川秀忠着陣するとこれを単騎出迎え真田攻め為に小諸本陣定めた秀忠軍に参陣した上田城戦いで城方真田昌幸善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身人質出して秀忠家康本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦遅参して父の逆鱗触れた秀忠執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠指揮補佐して深い信頼得て、後に秀忠家康世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる準譜代大名)。所領面では旧領安堵され、幕藩体制において信濃小諸藩初代藩主となった慶長6年1601年)、諱を秀久に戻している。 小諸藩主としての秀久は熱心に領地開拓整備取り組み先に述べた小諸城大改修24年間の治世大手門黒門二の丸増築していて、小諸城近代城郭として完成させた。特に大手門歴戦武人らしく華美な装飾省き慶長風の質実剛健作りとなっている。八幡宮八幡神社)の勧進街道伝馬制度宿場街整備など多様な治績残し、笠取垰と小諸城及び城下町現在のように開拓したのは秀久の治績といえる一方で大規模な開拓事業為に農民達には過酷な課役与えてしまい、佐久郡では一郡逃散という事態が起きている。しかし、その後農民逃亡を防ぐ農村復興策として、年貢減額猶予による農民帰還や、農村有力者恩給与えて家臣化するなど改善策取り組み、後に藩主となった三男の忠政も逃散した農民達への帰還呼びかけている。 幕府からの信頼篤く豊臣恩顧大名達の中で尚且つ一介外様大名としては過分とも言える程の待遇扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸参府する時は例外的に道中妻子同伴許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎え来ていたという。慶長13年1608年)の冬には秀忠江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年1609年)に秀忠将軍宣下御拝賀に随行し慶長16年1611年正月2日御謡初めの際にも着座許されている。慶長19年1614年)、江戸から小諸帰る途中発病し武州鴻巣にて5月6日死去した享年63もしくは64)。遺骸小諸西念寺荼毘付され墓所複数存在する事から分骨が行われたと考えられる。『改選仙石家譜』ではその内一つである芳泉寺墓所正式な霊廟としている。家督三男・忠政が継いだ

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秀吉死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「秀吉死後」の解説

豊臣秀吉死後内大臣家康朝廷官位最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事家康託す」という遺言受けていたため五大老筆頭目されるうになる。また生前秀吉により文禄4年1595年8月禁止定められた、合議による合意を得ない大名家同士婚姻を行う。婚約した娘は、全て家康養女とし、その内容次の通りである。 伊達政宗長女五郎八姫家康の六男・松平忠輝。 松平康元家康の甥)の娘と福島正之福島正則養子)。 蜂須賀至鎮蜂須賀家政世子)と小笠原秀政の娘(家康外孫養女)。 水野忠重家康叔父)の娘と加藤清正保科正直の娘・栄姫家康の姪で養女)と黒田長政黒田孝高嫡男)。 このころより家康は、細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになったこうした政権運営めぐって大老前田利家五奉行石田三成らより「専横」との反感を買い慶長4年1599年1月19日家康に対して三中老堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝し追い返した。利家らと家康2月2日には誓書交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康後述する伏見城治部少丸の直下にある自身屋敷から、対岸向島城へ移ることでこの一件和解となった3月3日の利家病死直後福島正則加藤清正ら7将が、大坂屋敷石田三成殺害目的襲撃する事件起きた三成佐竹義宣協力大坂脱出して伏見城内治部少丸にある自身屋敷逃れたが、家康仲裁により三成奉行退任承諾して佐和山城蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康次男結城秀康あたった結果として三成失脚させ、最も中立的見られている北政所仲裁受けたことにより、結論客観性正当性)が得られ家康評価相対的に高まった評価され同時に三成生存させることによって豊臣家家臣同士対立継続することになる。もっとも、家康三成対立一辺倒ではなく協調模索する時期もあり、家康中立的な立場からの解決して双方均衡保とうとしたが、それが却って政争悪化させたとする見方もある。 9月7日、「増田長束奉行要請」として大坂入り三成大坂屋敷宿所とした。9月9日登城し豊臣秀頼対し重陽の節句における祝意述べた9月12日には三成の兄・石田正澄大坂屋敷移り9月28日には大坂城西の丸移り大坂政務執ることとなる。 9月13日毛利秀元宛輝元書状には、家康大坂入りした理由として次の3つ挙げている。 秀忠江戸へ下向したため正室お江離れるので、彼女以外の女性秀忠の子生む可能性があり両者の仲が悪くなるのを避けるため、お江下向させようとしたが淀殿周辺から反対されたこと。 後陽成天皇譲位意向示したが、秀吉遺言とは異なる子を指名したため、家康譲位断念申し入れざる得なかったこと。 秀吉遺言東国大名大坂西国大名伏見にいることが求められたが、宇喜多秀家大坂に留まったため家康抗議伏見に移ることを承諾したが、同様の者がまだ複数いること。 9月9日登城した際、前田利長浅野長政大野治長土方雄久の4名が家康暗殺企んだ増田長束奉行より密告があったとして、10月2日長政隠居の上徳川領の武蔵府中蟄居させ、治長は下総国結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対して加賀征伐企図するが、利長が生母芳春院江戸人質として差し出し出兵取りやめとなる。これを機に前田氏は完全に家康支配下組み込まれたと見なされることになる。 またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増行っている。 対馬国宗義智1万石を加増。その家臣柳川智永従五位下豊前守叙任豊臣姓)。 遠江国浜松12万石堀尾吉晴越前国府中5万石を加増美濃国金山7万石森忠政信濃国川中島137,000石に加増移封丹後国宮津細川忠興豊後国杵築6万石加増薩摩国大隅島津義久5万石を加増慶長5年1600年3月豊後国南蛮船オランダ船)のリーフデ号漂着した家康リーフデ号大阪移し航海長ウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や船員ヤン・ヨーステン家康厚遇され外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムス航海水先案内技術だけでなく、数学天文学も得意としていたことから家康ヨーロッパ科学知識技術伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された。

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