秀吉死後の豊臣氏とは? わかりやすく解説

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秀吉死後の豊臣氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:43 UTC 版)

豊臣氏」の記事における「秀吉死後の豊臣氏」の解説

豊臣氏拡大は、秀吉個人的な権力により官位叙任権独占し同時に官位叙任文書の内容意のまま改変できたことに基づくものであり、慶長3年1598年)に秀吉死去すると当然その拡大停止し逆に縮小向かった徳川家康とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年1603年)には家康が「新田」「徳川」などの名字称し源朝臣家康」として征夷大将軍となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前秀吉のように官位叙任権排他的に独占するにはいたっていない。秀吉後継者羽柴宗家当主である秀頼は、大坂城によりながら、自らの直属家臣対す官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名羽柴名字豊臣の氏を使用するかしないかは、基本的に本人判断ゆだねられたままであった。 たとえば、家康将軍任官と同じ慶長8年1603年)、池田輝政右近衛権少将任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同慶8年1603年山内一豊従四位下に叙せられ、土佐守任じられているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年1603年)のこと、加藤清正関ヶ原の戦い恩賞として肥後一国一円領有するに当たり、主計頭から肥後守改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。いわゆる豊臣恩顧”の大名代表格である清正は別として、輝政は家康女婿であり、一豊は「小山評定」の逸話著名な徳川派であるが、この件では特に家康への遠慮のようなものは見いだせない。 その後も、池田輝政長男輝直(後の利隆)、加藤清正次男清孝(忠正)、福島正則次男忠清(後の忠勝)など、豊臣氏再生産続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍徳川秀忠偏諱与えられており、明らかに江戸幕府通じて官位叙任であるにもかかわらず幕府豊臣の氏の使用阻止できないでいる。秀頼がなお健在であるという前提があるとはいえ秀吉達成した既成事実大きく重いものとして幕府のしかかっていた。

※この「秀吉死後の豊臣氏」の解説は、「豊臣氏」の解説の一部です。
「秀吉死後の豊臣氏」を含む「豊臣氏」の記事については、「豊臣氏」の概要を参照ください。

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