秀吉書状の御茶湯御政道とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 秀吉書状の御茶湯御政道の意味・解説 

秀吉書状の御茶湯御政道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:55 UTC 版)

御茶湯御政道」の記事における「秀吉書状の御茶湯御政道」の解説

御茶湯御政道は、天正10年1582年10月18日付の秀吉書状見られる文言である。この書状は、信長本能寺横死した後に、羽柴秀勝信長の四男)を喪主として葬儀行った直後書かれたもので、体裁斎藤利堯岡本良勝両名充てになっているものの実質織田信孝充てたもので、原本現存しないがその写し草案が数点存在している。 上様重々御褒美御感状、其上但州金山御茶湯道具以下取揃被下、御茶湯雖御政道我等は免置、茶湯可仕と被仰出候事、今生後世難忘存候、たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へば夜昼泪をうかめ、御一類御事迄あたにも不存候事 — 天正十年十月十八日付書状、『金井文書書状は「信長から受けた恩を忘れた事は無く織田一族疎略に思ったはしない」という趣旨であり、引用文章秀吉の手柄を列記した部分冒頭記されている。これに先立つ14日付の草案思われる文章伝わっているが、そこに御茶湯御政道文言はなく、この4日間に秀吉によって造られ言葉考えられるまた、逆接の意味がある「雖」を付けて茶の湯許された」と続くことから、竹本千鶴は、御政道とは禁制意味するもので、「信長により茶の湯禁じられているが、これを私たち許された」と解釈し、ゆるし茶湯意味するとしている。また、田中仙堂は、書状目的を「自分信長から最も目を掛けられていた」と主張する事とした上で信長茶道具下賜茶会開催許可そうした意味合い持っていたとしている。 この書状にみえる信長許され秀吉茶会は、天正9年1581年12月22日催され茶会考えられる秀吉はこの茶会の事を今井宗久今井宗薫充て書状書いているが、秀吉はこの茶会を「御茶之湯」と呼び室礼には信長から拝領した「御道具」を用いている。その他に茶会を行う事、堺衆茶頭とする事、茶道具下賜する事の3点信長から許されたことが分かる竹本は、こうした点から「御茶之湯」の開催織田政権内の中枢にいることを誇示する目的があったとしている。

※この「秀吉書状の御茶湯御政道」の解説は、「御茶湯御政道」の解説の一部です。
「秀吉書状の御茶湯御政道」を含む「御茶湯御政道」の記事については、「御茶湯御政道」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秀吉書状の御茶湯御政道」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秀吉書状の御茶湯御政道」の関連用語

1
御茶湯御政道 百科事典
14% |||||

秀吉書状の御茶湯御政道のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秀吉書状の御茶湯御政道のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの御茶湯御政道 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS