秀吉書状の御茶湯御政道
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「御茶湯御政道」の記事における「秀吉書状の御茶湯御政道」の解説
御茶湯御政道は、天正10年(1582年)10月18日付の秀吉の書状に見られる文言である。この書状は、信長が本能寺で横死した後に、羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として葬儀を行った直後に書かれたもので、体裁は斎藤利堯・岡本良勝両名充てになっているものの実質は織田信孝に充てたもので、原本は現存しないがその写しと草案が数点存在している。 上様重々預御褒美御感状、其上但州金山、御茶湯道具以下取揃被下、御茶湯雖御政道、我等は免置、茶湯可仕と被仰出候事、今生後世難忘存候、たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へば、夜昼泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事 — 天正十年十月十八日付書状、『金井文書』 書状は「信長から受けた恩を忘れた事は無く、織田一族を疎略に思ったりはしない」という趣旨であり、引用の文章は秀吉の手柄を列記した部分の冒頭に記されている。これに先立つ14日付の草案と思われる文章も伝わっているが、そこに御茶湯御政道の文言はなく、この4日間に秀吉によって造られた言葉と考えられる。また、逆接の意味がある「雖」を付けて「茶の湯を許された」と続くことから、竹本千鶴は、御政道とは禁制を意味するもので、「信長により茶の湯を禁じられているが、これを私たちは許された」と解釈し、ゆるし茶湯を意味するとしている。また、田中仙堂は、書状の目的を「自分が信長から最も目を掛けられていた」と主張する事とした上で、信長の茶道具の下賜と茶会開催の許可がそうした意味合いを持っていたとしている。 この書状にみえる信長に許された秀吉の茶会は、天正9年(1581年)12月22日に催された茶会と考えられる。秀吉はこの茶会の事を今井宗久・今井宗薫に充てて書状に書いているが、秀吉はこの茶会を「御茶之湯」と呼び、室礼には信長から拝領した「御道具」を用いている。その他に、茶会を行う事、堺衆を茶頭とする事、茶道具を下賜する事の3点を信長から許されたことが分かる。竹本は、こうした点から「御茶之湯」の開催は織田政権内の中枢にいることを誇示する目的があったとしている。
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