秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後
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「増田長盛」の記事における「秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後」の解説
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。その一方で石田三成と大谷吉継の謀議があった7月12日の同日、家康のもとに、ただちに謀議の趣旨を密告したのである。家康配下の永井直勝に宛てた密書には、大谷吉継が美濃の垂井で病と称し、前後二日ほど滞在し、石田三成と謀議に及んだことを暗に知らせている。今後とも折々に知らせると加えていることから察すると、長盛は表裏者といえ、家康の心象を損ねていた。 伏見城攻めには自ら参加し、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。所領没収のほかに金1900枚と銀5000枚を差し出して命だけは助けられたとされる。 後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与した。家康は長盛の謹慎を解く条件として「大坂城に入って秀頼周辺の動向を探るように」としたが、長盛は「秀頼様のお命を縮めるようなことをすれば太閤殿下の恩義に背く事になるので切腹をさせて欲しい」と申し出た。長盛は戦後に自害を命じられ、元和元年5月27日自害した。享年71。 安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。 墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
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