秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後の意味・解説 

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:48 UTC 版)

増田長盛」の記事における「秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後」の解説

慶長3年1598年)に秀吉没すると、石田三成は反徳川家康立場鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康謀議参加慶長5年1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判家康悪事糾弾する弾劾書を示し五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担要請する文書を送るなど精力的に活動した。その一方で石田三成大谷吉継謀議があった7月12日同日家康のもとに、ただちに謀議趣旨密告したのである家康配下永井直勝宛てた密書には、大谷吉継美濃垂井で病と称し前後二日ほど滞在し石田三成謀議及んだことを暗に知らせている。今後とも折々知らせると加えていることから察すると、長盛は表裏者といえ、家康心象損ねていた。 伏見城攻めには自ら参加し重臣福原清左衛門をして城内籠る甲賀衆寝返り促し落城導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門増田左衛門陣代として軍勢派遣し増田勢は大津城湖水方面から城壁越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いでまた、家臣中村金六が敵方勇士浅見右衛門組み打ち功名をあげた。 9月15日行われた関ヶ原の戦いには参加せず毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し9月27日大坂城西の丸にて沙汰申し渡され改易となる。その身柄高野山預けられた。所領没収のほかに金1900と銀5000差し出して命だけは助けられとされる。 後に高野山出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。元和元年1615年)、尾張藩主徳川義直仕えていた息子増田盛次大坂夏の陣尾張家出奔し豊臣氏与した家康は長盛の謹慎を解く条件として「大坂城入って秀頼周辺動向を探るように」としたが、長盛は「秀頼様のお命を縮めるようなことをすれば太閤殿下恩義に背く事になるので切腹をさせて欲しい」と申し出た。長盛は戦後自害命じられ元和元年5月27日自害した享年71安藤英男は、長盛が三成失脚後100万以上に相当する豊臣氏蔵入地一括管理していた点を指摘し、長盛が家康通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦原因分析している。 墓所埼玉県新座市金鳳山平林寺当初騎西金重にあった平林寺葬られたが、松平信綱によって平林寺移転された際、新座郡野火止移った平林寺境内移された。明治年間子孫墓石再度移転している。

※この「秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後」の解説は、「増田長盛」の解説の一部です。
「秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後」を含む「増田長盛」の記事については、「増田長盛」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後」の関連用語

1
14% |||||

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの増田長盛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS