秀吉死後の「取次」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 20:53 UTC 版)
「取次 (豊臣政権)」の記事における「秀吉死後の「取次」」の解説
慶長3年の秀吉死後、伏見城に入り政権を主導した徳川家康は東国取次の浅野長政を引退させた。また慶長4年(1599年)に日向国南部で起こった庄内の乱においても寺沢広高を介して鎮圧動員をかけるなど、取次を含む豊臣政権の統治機構を利用して、従来は疎遠であった九州方面への縁を深め、次第に勢力を増していった。庄内の乱では広高を利用するとともに家臣の山口直友を派遣して島津氏内部の調停を進め、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、直友を広高と入れ替わりに公的な取次に就け、家康家臣の小笠原一庵を長崎奉行に任命した。その他井伊直政、本多正信などが寺沢広高に代わって九州大名への取次を担った。このように、豊臣政権の取次はしだいに徳川政権の取次へと置き換えられていった。 ただし、関ヶ原の戦い前後の毛利輝元の書状表記を検討した研究によれば、合戦後の輝元と徳川家康の関係は戦争の勝者と敗者という関係にすぎず、豊臣政権下での優位性を獲得したのは家康の側だったものの、輝元自身は、家康の権力を「公儀」と位置づけたのでも、徳川家とのあいだに主従関係を取り結んだのでもないという意識のうえに立っていた。慶長8年(1603年)の家康の将軍任官によって武家社会の秩序は徳川家を中心にかたちづくられたかにみえるが、実際には豊臣家を中心に展開される秩序がまだ残存しており、輝元は本多正信らは単なる徳川家臣にすぎないとの見方に立った。こうした豊臣家を軸とする秩序が名実ともに失われたのは慶長20年(1615年)の大坂の陣の終戦後のことである。
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