秀吉家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:05 UTC 版)
天正10年(1582年)の本能寺の変で父・直則が討ち死にすると家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて所領を安堵される。天正17年(1589年)10月、南条郡大桐村に灰焼きの営業独占権を与えた文書が現存する。天正18年(1590年)の小田原征伐では石田三成の麾下で武蔵国の岩槻城、忍城の攻略に参加し、この功によって従五位下備後守に任官、越前国今庄2万石に加増され大名に列する。しかしその地位は小早川秀秋や堀尾吉晴の与力であり、独立の大名ではなかった。今庄は直保が居館を置いたことからその統治下において発展し、その統治は結城秀康の街道整備政策によって引き継がれて北国街道の宿駅として栄えるに至る。
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