秀吉への臣従とは? わかりやすく解説

秀吉への臣従

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 10:05 UTC 版)

佐々成政」の記事における「秀吉への臣従」の解説

天正11年1583年4月賤ヶ岳の戦いでも勝家方に与する。しかし、成政は上杉景勝への備えのため越中動けなかったため、叔父佐々平左衛門率いる兵600人を援軍として出すにとどまった合戦中における前田利家寝返り上杉景勝圧力もあり、柴田勝家北ノ庄城敗走する。この戦い自身着陣しなかったものの、勝家方だった成政は娘を人質出して剃髪する事で秀吉に降伏し、越中一国安堵された。この頃畿内では「佐々成政の裏切りによって勝家滅んだ」との風説流れていたという(『多聞院日記』)。 天正12年1584年正月4日、成政は前田玄以とともに秀吉茶会招かれた(『宗及茶湯日記』)。同年12日には「陸奥守」に任官した御礼参内している。 徳川家康が反秀吉姿勢明確にした天正12年3月以降家康大久保忠世との交流確認されている。この頃小牧・長久手の戦い起こっている。 この小牧・長久手の戦い最中において、成政が徳川方寝返ったタイミング天正12年5月中旬もしくは8月 とされている。天正12年8月28日には秀吉方の前田利家朝日山城石川県金沢市加賀朝日町)を攻撃している。確実な史料の裏付けはないがこれが反秀吉としての最初軍事行動である(『加賀藩史料』)。この攻撃前田家家臣村井長頼撃退されている。 同年9月9日 (旧暦)新暦10月12日)、利家の領国である加賀国能登国分断をはかるべく、宝達山越えて坪山砦に布陣し総勢15000人で秀吉方に立った利家の末森城包囲するが、金沢城から急行した前田利家末森城殺到する佐々軍の背後から攻撃し佐々軍は敗北喫した末森城の戦い)。この時期に於いて越後国の上景勝とも敵対していたため二正面作戦強いられ苦戦続いた小牧・長久手の戦い最中秀吉と信雄との間で和議成立して家康停戦すると、厳冬飛騨山脈北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破し家康再挙促した(「さらさら越え」、後述)。しかし家康説得失敗し織田信雄滝川一益からも快い返事得られなかった。成政は失意の中、再び越中帰国する。しかし、それでも成政は反豊臣前田姿勢を崩すことはなかった。 天正13年1585年)、秀吉小牧・長久手の戦いの後も未だ反抗続け佐々成政討伐するため自ら越中乗り出し富山城10万の軍で包囲し、成政は織田信雄仲介により降伏した富山の役)。秀吉裁定により、一命助けられたものの、越中東部新川郡を除く全ての領土没収された。ただし、引き続き郡内諸城には、青山氏前田家家臣)・舟見氏(上杉家家臣)らが遺臣蜂起備え駐留したうえ富山城破却、成政も在国許され妻子と共に大坂移住させられた。以後しばらくは御伽衆として秀吉仕えた天正15年1587年)、成政は羽柴名字与えられている。

※この「秀吉への臣従」の解説は、「佐々成政」の解説の一部です。
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