秀吉への臣従
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天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いでも勝家方に与する。しかし、成政は上杉景勝への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600人を援軍として出すにとどまった。合戦中における前田利家の寝返りや上杉景勝の圧力もあり、柴田勝家は北ノ庄城に敗走する。この戦いに自身は着陣しなかったものの、勝家方だった成政は娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、越中一国を安堵された。この頃畿内では「佐々成政の裏切りによって勝家が滅んだ」との風説が流れていたという(『多聞院日記』)。 天正12年(1584年)正月4日、成政は前田玄以とともに秀吉の茶会に招かれた(『宗及茶湯日記』)。同年12日には「陸奥守」に任官した御礼に参内している。 徳川家康が反秀吉の姿勢を明確にした天正12年3月以降、家康や大久保忠世との交流が確認されている。この頃、小牧・長久手の戦いが起こっている。 この小牧・長久手の戦いの最中において、成政が徳川方に寝返ったタイミングは天正12年5月中旬、もしくは8月 とされている。天正12年8月28日には秀吉方の前田利家の朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を攻撃している。確実な史料の裏付けはないがこれが反秀吉方としての最初の軍事行動である(『加賀藩史料』)。この攻撃は前田家家臣の村井長頼に撃退されている。 同年9月9日 (旧暦)(新暦10月12日)、利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるべく、宝達山を越えて坪山砦に布陣し、総勢15000人で秀吉方に立った利家の末森城を包囲するが、金沢城から急行した前田利家が末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、佐々軍は敗北を喫した(末森城の戦い)。この時期に於いても越後国の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。小牧・長久手の戦いの最中に秀吉と信雄との間で和議が成立して家康が停戦すると、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破して家康に再挙を促した(「さらさら越え」、後述)。しかし家康の説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。成政は失意の中、再び越中へ帰国する。しかし、それでも成政は反豊臣・前田姿勢を崩すことはなかった。 天正13年(1585年)、秀吉は小牧・長久手の戦いの後も未だ反抗を続ける佐々成政を討伐するため自ら越中に乗り出し、富山城を10万の軍で包囲し、成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収された。ただし、引き続き郡内の諸城には、青山氏(前田家家臣)・舟見氏(上杉家家臣)らが遺臣の蜂起に備え駐留したうえ富山城も破却、成政も在国を許されず妻子と共に大坂に移住させられた。以後しばらくは御伽衆として秀吉に仕えた。 天正15年(1587年)、成政は羽柴の名字を与えられている。
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