秀吉の関白就任
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そこで、信輔と昭実は争うように大坂城の秀吉の許を訪問して、自己の正当性を主張した。前田玄以から報告を受けた秀吉は、玄以や菊亭晴季らと事態の収拾策について協議した。ここで晴季は、先年の信長への三職推任問題を念頭に、関白就任を秀吉に勧めた。秀吉もこれに賛同し、晴季と玄以は早速、先に引退していた信輔の父・近衛前久(元関白・太政大臣)に対して、秀吉を前久の猶子として関白を継がせ、将来的には信輔を後継として関白職を譲る案を提示した。 前久からすれば、元から秀吉との関係は良好でなかった。本能寺の変の当時、京の二条衣棚(現・京都市中京区)に織田信長の嫡男・信忠が籠城して討ち死にすることになる二条新御所という城館があった。それ以前この隣接地に秀吉は屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されて、お気に入りであった前関白・前久に献上されていた(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を明智光秀軍が占拠しそこから二条新御所を攻撃したという話があり、やがてそれに尾ひれが付いて前久自身が光秀に加担したとの風説が流され、秀吉から前久は疑われていたのである。これに加え、藤原氏以外に関白の地位が移ることは屈辱的であった。 しかし、近衛家の立場からすれば、 秀吉は名目上あくまで近衛家の一員として関白を継ぐこと 問題の長期化によって、昭実が関白を1年以上務めれば、結果論的に昭実の論が正しかったとされる可能性があり、近衛家は面目を失うこと 将来は信輔に関白の地位が譲られること 現時点で日本国内に秀吉に対抗しうる勢力が最早存在しないこと から前久は秀吉の要求に屈するほかなかったのである。 天正13年7月11日(1585年8月6日)には、秀吉は近衛前久の猶子として関白宣下を受け、同時にこの相論の当事者である二条昭実・近衛信輔、そして菊亭晴季に従一位が授けられ、併せて近衛家に1000石、他の摂家に500石の加増があった(なお、秀吉の左大臣または右大臣昇進については見送られ、引き続き近衛信輔と菊亭晴季が任じられている)。
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