秀吉の関白就任とは? わかりやすく解説

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秀吉の関白就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 02:02 UTC 版)

関白相論」の記事における「秀吉の関白就任」の解説

そこで、信輔と昭実は争うように大坂城秀吉の許を訪問して自己の正当性主張した前田玄以から報告受けた秀吉は、玄以や菊亭晴季らと事態の収拾策について協議した。ここで晴季は、先年信長への三職推任問題念頭に関白就任秀吉勧めた秀吉もこれに賛同し、晴季と玄以は早速、先に引退していた信輔の父・近衛前久(元関白太政大臣に対して秀吉を前久の猶子として関白を継がせ、将来的には信輔を後継として関白職を譲る案を提示した。 前久からすれば、元から秀吉との関係良好でなかった。本能寺の変当時、京の二条(現・京都市中京区)に織田信長嫡男信忠籠城して討ち死にすることになる二条新御所という城館があった。それ以前この隣接地秀吉屋敷有していたが、天正8年1580年)に信長によって没収されて、お気に入りであった関白・前久に献上されていた(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人逃げ出したこの屋敷明智光秀軍が占拠しそこから二条新御所攻撃したという話があり、やがてそれに尾ひれ付いて前久自身光秀加担したとの風説流され秀吉から前久は疑われていたのである。これに加え藤原氏以外に関白地位が移ることは屈辱的であった。 しかし、近衛家立場からすれば秀吉名目上あくまで近衛家一員として関白を継ぐこと 問題長期化によって、昭実が関白1年以上務めれば、結果論的に昭実の論が正しかったとされる可能性があり、近衛家面目を失うこと 将来は信輔に関白地位譲られること 現時点日本国内秀吉対抗しうる勢力最早存在しないこと から前久は秀吉要求屈するほかなかったのである天正13年7月11日1585年8月6日)には、秀吉近衛前久猶子として関白宣下を受け、同時にこの相論当事者である二条昭実近衛信輔、そして菊亭晴季従一位授けられ併せて近衛家1000石、他の摂家500石の加増があった(なお、秀吉左大臣または右大臣昇進については見送られ引き続き近衛信輔菊亭晴季任じられている)。

※この「秀吉の関白就任」の解説は、「関白相論」の解説の一部です。
「秀吉の関白就任」を含む「関白相論」の記事については、「関白相論」の概要を参照ください。

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