秀吉の時代とは? わかりやすく解説

秀吉の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 17:24 UTC 版)

豊臣秀長」の記事における「秀吉の時代」の解説

天正10年6月2日1582年6月21日)、織田信長明智光秀による謀叛本能寺の変)で死亡すると、秀吉軍はすぐさま戦闘状態であった毛利家和睦協定を結び、畿内撤退開始する秀吉の「中国大返しに従って、秀長も山崎の戦い参戦黒田孝高と共に天王山守備にあたる。 天正11年1583年)、賤ヶ岳の戦い参戦する美濃守任官し播磨但馬の2ヶ国を拝領し姫路城有子山城居城にした。 天正12年1584年)、徳川家康との間で小牧・長久手の戦い起きる。秀長は守山進軍し家康連合組んでいる織田信雄監視した。信雄との講和交渉では秀吉名代として直接交渉赴いている。この戦いでは甥の羽柴秀次失態により秀吉叱責されたが、その後紀伊四国への遠征では秀長と共に従軍し秀吉対する秀次の信頼回復尽力した天正13年1585年)、紀州征伐では、秀次と共に秀吉副将任命される紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊和泉などの約64万石余の所領与えられる同年居城となる和歌山城築城時に藤堂高虎普請奉行任命する同年6月四国攻めでは病気出陣できない秀吉代理人として、10万超える軍勢総大将任じられる。しかし長宗我部氏抵抗激しく、また毛利氏宇喜多氏合同軍のため侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍申し出なされたが、秀長は断り書状秀吉送った(『四国発向事』)。同年8月長宗我部元親降した功績賞され紀伊国河内国に、大和国加増されて、合計100万石で郡山城に入る(かつての領主筒井定次伊賀国転封)。秀長の領国である紀伊大和河内地方寺社勢力強く決し治めやすい土地柄ではなかったが、諸問題解決時に苛烈処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると、内政面でも辣腕であったことが伺える。現に大和入国同時期に盗賊追補通達廊坊文書)、検地実施諸家単一文書)、全5ヶ条の掟の制定法隆寺文書)を行うなど多く政策実施している。また、大和陶器赤膚焼開窯するなど広い政策行ったこのころ豊臣本姓与えられる従二位大納言官位得て大和大納言称される天正14年2月8日1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。この頃から体調崩れやすくなったと思われこの後数度にわたり湯治訪れている。また、湯治中に金蔵院宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者訪れている。同年10月26日12月6日)、上洛拒み続けた徳川家康大坂到着し、秀長邸に宿泊した。その晩、秀吉自ら家康前に現れ臣従求め出来事起きる。これを記す文献多く存在する(『家忠日記』、『徳川実紀』)。 天正14年1586年)、大友宗麟島津氏圧迫により窮地に陥り、秀吉参戦介入救済求めて上洛秀吉は宗麟をもてなし内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べた。つまり、豊臣政権の大名統制権限が秀長に委託されていたことが知られるのである(『大友家文書録』)。同年8月奥熊野地侍たちによる一揆発起する北山一揆)。秀長も出陣したが、豪雪のため征伐は留まった。天正17年1589年)には一揆鎮圧された。 天正15年1587年)の九州平定では日向方面総大将として出陣する。耳川の戦い舞台となった高城包囲すると、援軍として駆けつけ島津義弘宮部継潤の陣に夜襲仕掛ける(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、藤堂高虎戸川達安らが合流する島津軍夜襲失敗終わり島津軍薩摩国撤退するその後島津家久講和に秀長を訪ね日向方面進軍終了する。この功績により、8月従二位権大納言叙任された。しかし秀長は、九州征伐参加した大名割高な兵糧売り付けようとして秀吉止められている。 天正16年1588年)、紀伊雑賀において材木管理をしていた代官吉川平介が、秀長に売買命じられ熊野材木2万本の代金着服する事件起きた秀吉の耳に届き吉川処刑される。秀長自身責任問われ秀吉から翌年年頭の挨拶拒否された。 天正17年1月1日1589年2月15日)、大坂城にて諸大名と共に秀吉新年祝賀太刀進上を行う(『後編旧記雑録』)。この後、秀長が大坂城訪れたという記録はない。天正18年1590年1月頃から病が悪化小田原征伐には参加できなかった。10月頃に秀次が秀長の病気回復祈願のため談山神社訪れており(談山神社文書)、両者の関係良かった思われる天正19年1月22日1591年2月15日)、秀長は郡山城内で病死した。享年52男子がいなかったため、家督養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保に継がせた。郡山城には金子56,000銀子は2間四方部屋満杯なる程金銀備蓄されていたという(多聞院日記)。 戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わる。また大阪市中央区豊國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。 秀長の家系4年後の文禄4年4月16日に秀保が17歳死去したことにより断絶した

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