秀吉の子飼いとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 00:21 UTC 版)
永禄4年(1561年)、市松(幼名)は尾張国海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)で桶屋を営む福島正信(正光)の長男として生まれたという。しかし、父・正信は義父であったともいわれている。後者の場合、実父と目されているのは、同国春日井郡の清洲村界隈(旧・愛知県西春日井郡清洲町、現在の清須市の中核地域)の桶大工、および、星野成政である。母は、秀吉(のちの豊臣秀吉)の母(のちの大政所)の妹(秀吉の叔母)にあたる人物である。 少年に成長すると、母を通じた縁で秀吉の小姓になる。 天正6年(1578年)、播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。始めの禄高は200石であった。 天正10年(1582年)、山崎の戦いにおいて、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となった。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、父・正信とともに、後備えとして兵300を率いて従軍したという。正則は本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、褒美として胴肩衣(襦袢)を賜った(『福島家世系之図』)。 その後、根来寺攻めや、四国征伐にも従い、天正15年(1587年)の九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万3千余石を与えられ、ここに正則は「分国」を形成する大名的領主となった。小田原征伐では、織田信雄の軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃、包囲した。
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