秀吉の播磨攻め
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天正6年(1578年)2月、加古川城での毛利討伐の軍議で別所氏と羽柴秀吉が決裂し三木合戦が始まった際、城主神吉頼定は同じ赤松氏一族の別所氏についた。このため、神吉城も秀吉と戦うこととなる。周辺の野口城・志方城・高砂城と共に守りを固め、頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。 しかし、秀吉は周囲から落とす作戦に切り替え、まず4月6日に野口城が落城し、続いて6月23日(グレゴリオ暦7月27日)に神吉合戦が始まった。頼定は兵約2000人で籠城し、対する秀吉勢は織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻め、秀吉勢は頼定の叔父神吉貞光(藤太夫)を佐久間信盛を通して謀略で味方に引き入れ頼定を暗殺、7月16日(8月19日)に神吉城は落城したとされる。 また、秀吉は神吉城を攻める際に、生石神社に対し陣所に貸与せよと申し出たが、陣所には貸さぬと拒否されたため焼き討ちにしたとされる(時の生石神社宮司は頼定の弟とされる)。
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