秀吉の水攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:50 UTC 版)
太田城を巡る合戦の詳細については紀州征伐#太田城水攻め、太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦いを参照のこと。 中世、紀伊国は山名氏・大内氏・畠山氏などが守護を務めていた。だが高野山や粉河寺、紀三井寺といった寺社勢力が強い地域であり、中央集権的な統治は不可能であった。従って在地豪族は自立性が強く、大勢力に従うことには抵抗を見せた。戦国時代、織田信長は石山本願寺に通じる雑賀衆・太田党や根来寺の討伐を行ったが、それは他の一向一揆に比べて峻烈なものではなく、和睦という形で決着を見た。このため寺社勢力はその影響力を保持したままであった。 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて根来寺・雑賀衆・太田党は徳川家康に味方し、羽柴秀吉への敵対姿勢を強めた。このため翌1585年(天正13年)に秀吉は弟の羽柴秀長・甥の羽柴秀次と共に6万の軍勢を率い紀州征伐に乗り出した。根来寺を焼き討ちした羽柴軍は太田党の本拠地・太田城(現・和歌山市太田)への攻撃を開始した。最初は力攻めを行ったが太田党の奇襲による打撃を受け、秀吉は得意の兵糧攻めによる攻撃に切り替えた。そしてこの時秀吉が選択したのは、備中高松城攻めと同じ水攻めであった(太田城水攻め)。 秀吉は明石則実に命じ堤を設計させ、付近を流れる紀の川を堰き止めて太田城を水没させる策に出た。推定で堤高3メートルから5メートル、堤の長さ6キロメートルの大規模な土堤であり、所伝通り3月25日に起工し、4月1日に湛水を開始したとなると全て人力であるにも関わらずわずか6日間で完成させたことになる。十分な籠城準備が出来ていなかった城内は10日余りで兵糧が尽き、蜂須賀正勝・前野長康の降伏勧告を受諾し4月12日に太田城は開城。城主である太田宗正を始め51名が自刃して戦いは終了した。 この第二次太田城の戦いにおける秀吉の水攻めで建設された堤は、治水にも利水にも関係しない軍事的な河川工作物であるが、紀の川における初の大規模な河川工作物である。
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