備中高松城攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:34 UTC 版)
詳細は「中国攻め」および「備中高松城の戦い」を参照 主君織田信長より中国路平定を目的とした中国方面軍の軍団長に任じられていた羽柴秀吉は天正10年(1582年)3月、播磨姫路城(兵庫県姫路市)より備前に入り、3月17日に常山城(岡山市南区)を攻め、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢と合流、総勢3万の兵力となって、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備中冠山城(岡山市北区)、備中庭瀬城(岡山市北区)、備中加茂城(岡山市北区)など、備前・備中における毛利方の諸城を陥落させていった。一方で秀吉は動揺する毛利水軍への調略も行い、4月14日には毛利水軍に帰属していた伊予の村上水軍の来島氏と能島村上氏を帰順させている。 備中高松城(岡山市北区)の城主清水宗治は、織田・毛利両陣営双方から引き抜きを受けたが、織田氏からの誘いを断り毛利氏に留まった。秀吉は、僅か3,000人の兵員しか持たない高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅する作戦を採った。しかし、秀吉は苦戦を余儀なくされた。そこで、秀吉は主君信長に援軍を要請し、信長もまた家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に高松城攻略に専心するよう秀吉に命じた。 勇将・清水宗治の守る高松城を攻めあぐねた秀吉は、5月7日、水攻めにすることを決した。高松城は、三方が深い沼、一方が広い水堀となっており、要害であった。このとき水攻めを発案したのは、一説には軍師黒田孝高(如水)ではないかともいわれている。城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、19日に終えた。作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを引き込もうというものであった。 高松城の水攻めは「空前」の「奇策」であり、秀吉の特異な戦法として世に知られる。秀吉は無益な人的損耗を避けるため、綿密な地勢研究の結果に基づいてこの策に決定、兵や人民に高額な経済的報酬を与えることによって、全長4km弱におよぶ堤防をわずか12日間で築造したのである。 こうして秀吉は、宗治救援に駆けつけた吉川元春・小早川隆景ら毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨で城の周囲は浸水し、高松城は「陸の孤島」となって毛利軍は手が出せない状況となった。
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