織田信長時代とは? わかりやすく解説

織田信長時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:33 UTC 版)

稲葉良通」の記事における「織田信長時代」の解説

1568年永禄11年)、信長の上洛戦に参加し、翌1569年永禄12年8月27日より開始され北畠具教北畠具房父子籠城する大河内城攻撃には攻囲陣の南方守備している。 1570年元亀元年5月信長朝倉義景討伐のために越前国へ向かうと、稲葉父子3人と斎藤利三守山城入り江州路の警固当たったこの際一揆勢が守山の南から火を放って攻め始めたが、良通らが一揆勢の切り崩しにかかり、これを破った。『寛政重修諸家譜』では、1200首級をあげて、信長から感状与えられたことが記録されている。さらに同年9月8日三好長逸らの襲撃際する大坂岸の守備、及び1571年元亀2年5月12日における長島一向一揆討伐、同3年4月安見新七郎居城河内交野城救援参戦している。 1573年天正元年7月槇島城の戦いでは、嫡男貞通及び嫡孫典通らを従えて参戦している。 1574年天正2年)、入道して一鉄号している。 1575年天正3年)の長篠の戦い越前一向一揆攻め美濃岩村城攻め、翌1576年天正4年)の天王寺の戦い1577年天正5年)の紀州征伐加賀一向一揆攻め播磨国神吉城攻め、翌1578年天正6年)の有岡城の戦い兵糧攻め切り替えた後には織田信孝副将として安土城留守居役務める)に参加し武功挙げた1576年天正4年5月天王寺の戦い後(『紀伊太田文書』)、左足親指表裏大きな腫物生じたが、内服薬使用して治癒させた。しかもこの成果について、治療実践際する用途を三例に区分し、その症例薬種の配味・効能書き留めている。同年11月16日天然痘かかった重症の子供に対して調合した投薬し、これを本復させている。 1579年天正7年)、家督曽根城嫡子の貞通に譲り美濃清水城に移る。1582年天正10年)、武田攻めよ凱旋した信長を、領内呂久の渡しにて饗応する1580年天正8年)、安藤守就北方城追われ武儀郡谷口蟄居した後、信長一鉄安藤氏旧領与えた。この時点一鉄勢力西濃最大のものとなる。以後西濃諸士多く信長によって一鉄につけられたものと考えられる

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織田信長時代

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宇喜多秀家」の記事における「織田信長時代」の解説

直家の死後宇喜多軍は信長命令によって中国遠征進めていた羽柴秀吉豊臣秀吉)の遠征軍組み込まれ秀吉による備中高松城攻め協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父宇喜多忠家代理として軍の指揮を執っている。また、戸川秀安長船貞親岡利勝(この3人は宇喜多三老呼ばれた)ら直家以来重臣たちが秀家を補佐した6月2日、秀家11歳の時、本能寺の変起こって信長死去するこのため秀吉毛利輝元和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作備前領有する大名になり、毛利氏監視役務めることとなった

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織田信長時代

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柴田勝家」の記事における「織田信長時代」の解説

信行死後、罪を許され信長の家臣となった。しかし、信行与して信長逆らったことが響いたのか信長尾張統一戦や桶狭間の戦い美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。ただし、永禄8年1565年7月15日付と推定される尾張国寂光院宛に出され所領安堵文書には丹羽長秀佐々主知(成政の一族とともに署名しており、このころには信長奉行1人であった永禄11年1568年の上作戦になって再度重用され畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒武将として参加し勝竜寺城の戦いなど)、信長の最精鋭として武功挙げた11月までは先方武将4人が京都軍政担当したが、幕府奉公衆任せ信長とともに岐阜引き上げる。永禄12年1569年1月三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都畿内行政担当5人の内としてあたった同年8月南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する元亀元年1570年4月浅井長政信長から離反すると5月には六角義賢琵琶湖南岸再進出し、岐阜への道を絶った信長南岸確保のため各城に6人の武将配置することとし、まず江南に4人が置かれた。勝家長光寺城に配属され同月下旬には六角勢と戦闘となったが、佐久間信盛森可成中川重政と共に撃退した6月浅井朝倉との姉川の戦い従軍する同年8月から9月野田城・福島城の戦い三好三人衆四国から攻め上り総軍対峙する中、石山本願寺突如敵対し混戦となる。その後半に、朝倉浅井連合軍が3大軍山科醍醐焼きつつ京都将軍御所目指し進軍した。『言継卿記』によると、勝家明智光秀守備のため京都戻されたが、勝家事態重大視して信長進言し、23日総軍野田福島から退却し強行軍同日夜半京都戻り志賀の陣となる。12月信長足利義昭依頼し朝廷仲介する形で浅井朝倉との和睦持ち込む元亀2年1571年5月石山本願寺呼応した長島一向一揆鎮圧に向かう。退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、大河と山に挟まれ狙いやすい箇所一揆勢が襲い掛かり、傷を負い勝家旗指物まで奪われた。すぐ、氏家直元(卜全)が交代した小勢であり対応できず、氏家多く戦死する9月比叡山焼き討ちでは殺戮戦に加わる。 元亀4年1573年2月信長対立した将軍義昭石山今堅田の砦に兵を入れると、勝家含めた4武将攻撃してこれらを陥落させた。信長将軍重んじ義昭との講和交渉進めるが、成立寸前松永久秀妨害破綻するこのため4月信長自ら出陣し義昭への脅しのために上京放火させた際は勝家参加している。なお、この時に信長下京に対して矢銭要求したこの際下京側が作成した矢銭献金予定リスト(「下京出入之帳」)には信長個人献上する250続いて勝家個人とその配下合計190を送ることが記載されている。また、同月信長義昭一時的に和睦した際に交わされ起請文には織田家重臣として勝家林秀貞佐久間信盛滝川一益ならび美濃三人衆とともに署名し勝家ら3名は当時織田家年寄重臣)の地位にあったことをうかがわせる7月義昭槙島城に、義昭側近三淵藤英二条城それぞれ立て籠もったが、勝家英を説得し二条城開城させた。なお、7月1日には信長4月下京命じていた矢銭献上免除しているが、勝家4日付でこの内容を保証する副状下京側に発給している。その後勝家自身加わった7万という人数義昭籠る槙島城総攻撃し降伏させた。義昭追放され事実上室町幕府滅びるが、毛利氏保護され義昭により信長包囲網敷かれると、織田軍の有力武将として近江国摂津国など各地転戦する。 天正元年1573年8月一乗谷城の戦いは、信長総動員となり朝倉氏滅ぼした勝家は、その後北近江小谷城の戦いにも参加したが、その際先鋒羽柴秀吉務めた同年9月に、2度目長島攻め参加している。長島西方呼応する敵城勝家参戦し桑名西別所城、酒井城を落とす。長島大湊の船が十分確保できず退却する2年前の勝家負傷同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ多数戦死する天正2年1574年)に多聞山城留守番役に細川藤孝続き3月9日から勝家が入る。同年7月3度目最終戦長島攻め参軍総員7大軍兵糧攻め助命約束開城したところをだまし討ち殲滅する。三手内の鳥口右翼)を佐久間信盛と共に指揮した天正3年1575年)には高屋城の戦い長篠の戦いにも参加する朝倉氏滅亡後信長朝倉旧臣前波吉継越前国守護としたが、同じく朝倉旧臣富田長繁はそれに反発して土一揆起こして前波討ち取った。しかしその後富田態度から一揆勢は富田手を切ることとし加賀国一向一揆指導者である七里頼周誘って新たに一向一揆起こして富田襲いかかり、動乱の中で富田家臣射殺され越前一揆持ちの国となった信長はこれに総軍率いて出陣し一向一揆殲滅戦平定した。9月信長越前国掟全9条(原書には「掟条々」)とともに勝家越前国八郡49万石北ノ庄城現在の福井市)を与えられた。このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権与えられる信長帰陣すると、一揆蜂起し小身の簗田は抑えられ信長に見限られ尾張戻される天正4年1576年)、勝家北陸方面軍司令官任命され前田利家佐々成政不破光治らの与力付けられ90年一揆持ちだった加賀国平定任される。なお、従前領地近江国蒲生郡居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀永田景弘らは与力から外されている 。 天正5年1577年7月越後国の上謙信加賀国にまで進出してきた。この時、勝家軍議羽柴秀吉衝突仲違いし秀吉信長許可を得ることもなく戦線離脱してしまい足並み乱れる。勝家七尾城救援に向かうが間に合わず七尾城陥落したため、周辺拠点放火しつつ退却した退却中の9月23日手取川上杉軍襲撃を受ける(手取川の戦い)。勝家側が千人余り打ち取られたという話も、謙信書状のみに書かれているが、他の史料記載無く小戦とも見られ不明である。そして天正6年1578年)に謙信死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治越中中部から上杉軍を逐った。 天正8年1580年3月信長本願寺講和結ばれた途端に北陸方面活発化し、勝家一向一揆司令塔金沢御堂攻め滅ぼして、軍を北加賀越中境まで進めた一向一揆制圧して、天正8年1580年11月、ついに加賀平定する。さらにその勢いのまま能登国越中国にも進出を果たす。また、佐久間信盛失脚したことによって、名実ともに織田家筆頭家老位置することになる。 翌天正9年1581年2月28日信長京都御馬揃えでは与力前田利家越前衆を率いて上洛し、参加したまた、このころから対上杉政策の為か、伊達氏家臣遠藤基信連絡盛んに取り伊達氏との外交政策一端担っている伊達治家記録など)[信頼性検証]。 天正10年1582年3月から上杉氏方の越中国魚津城松倉城富山県魚津市)を攻囲していた。6月2日未明本能寺の変があって信長横死するが、これを知らぬまま6月3日魚津城陥落した魚津城の戦い)。事件知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城戻った6月10日付の溝口左衛門への書状では、勝家光秀近江駐屯していると認識し実際に8日近江安土発ち9日には山城の京都にいた)、大坂にいた丹羽長秀連携して光秀を討つ計画伝えている。しかし上杉側が変を知り失地回復越中能登の国衆を煽り動けず、やっと18日近江出動するが、すでに中国大返し行った秀吉の軍が光秀討っていた。

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織田信長登場作品:戦国 - 鬼畜王領国の経営に興味がなく団子屋の店主を務めている大名。妹の香を溺愛している。ランスとは不思議な友情が芽生え彼に影番をまかせたりしている。常に飄々としているが不治の病を患っており、ランスに織田の安泰と香の将来を支えてくれるよう期待している。本人の実力は高く剣の腕はランスと互角かそれ以上、先代死亡後の織田家の衰退ですらも、実は自身亡き後に妹と信頼しうる家臣達だけで保ちうる規模に意図して縮小させていったという計画的なモノと、文武両道に長けた名君であったことが伺える。ランスの活躍で諸国を併合し織田家が力を付けていくのをおだやかに見守っていたが、実は使徒であったペットのサルボボの籐吉郎によって封印を解かれた魔人ザビエルに体をのっとらてザビエル完全復活のためのひょうたん集めに利用され、最終的には完全に肉体を奪われて死亡する。長いRanceシリーズにおいて、リックやバレス、ガンジーなどランスと親しい男性達の中で、唯一ランス自身に「友達だった」と言わしめた人物でもある。彼を殺して蘇った魔人ザビエルに対して、ランスははっきりと友を殺された怒りと、彼の遺した香姫を護ろうという意思を表していた。信長という名前は織田家当主が代々襲名するものであり、かつては上総介と名乗っていた。本編と別のルートによっては最後まで生き延びて国を譲り隠棲したり、本当に何事も無かったりすることもある。『鬼畜王』ではJAPANの大部分を支配する存在として登場する。魔人ザビエルの魔血魂がとりついており信長としての意識はなくほぼザビエルと化している。体の全てを取り戻して完全な魔人として復活することが目的。香姫登場作品:戦国 - クエスト - 鬼畜王技能レベル:槍戦闘LV1 - 護身術LV2信長の妹でやる気のない兄に代わって財政関連を担当している少女。料理は基本的に得意なのだが、なぜか団子だけは正しい手順で作っても虹色の殺人団子になる。兄の信長の体を奪った魔人ザビエルを倒すことで仇を討つ決心をしたり、焦れて特攻しそうになったランスを一喝したりと幼いながらも強い心の持ち主である。戦国

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