織田信長時代
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1568年(永禄11年)、信長の上洛戦に参加し、翌1569年(永禄12年)8月27日より開始された北畠具教・北畠具房父子が籠城する大河内城攻撃には攻囲陣の南方を守備している。 1570年(元亀元年)5月、信長が朝倉義景討伐のために越前国へ向かうと、稲葉父子3人と斎藤利三は守山城に入り江州路の警固に当たった。この際、一揆勢が守山の南から火を放って攻め始めたが、良通らが一揆勢の切り崩しにかかり、これを破った。『寛政重修諸家譜』では、1200の首級をあげて、信長から感状が与えられたことが記録されている。さらに同年9月8日の三好長逸らの襲撃に際する大坂楼岸の守備、及び1571年(元亀2年)5月12日における長島一向一揆討伐、同3年4月の安見新七郎居城の河内交野城救援に参戦している。 1573年(天正元年)7月、槇島城の戦いでは、嫡男貞通及び嫡孫典通らを従えて参戦している。 1574年(天正2年)、入道して一鉄と号している。 1575年(天正3年)の長篠の戦い、越前一向一揆攻め、美濃岩村城攻め、翌1576年(天正4年)の天王寺の戦い、1577年(天正5年)の紀州征伐、加賀一向一揆攻め、播磨国神吉城攻め、翌1578年(天正6年)の有岡城の戦い(兵糧攻めに切り替えた後には織田信孝の副将として安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。 1576年(天正4年)5月、天王寺の戦い後(『紀伊太田文書』)、左足親指の表裏に大きな腫物が生じたが、内服薬を使用して治癒させた。しかもこの成果について、治療実践に際する用途を三例に区分し、その症例と薬種の配味・効能を書き留めている。同年11月16日、天然痘にかかった重症の子供に対して調合した薬を投薬し、これを本復させている。 1579年(天正7年)、家督と曽根城を嫡子の貞通に譲り、美濃清水城に移る。1582年(天正10年)、武田攻めより凱旋した信長を、領内の呂久の渡しにて饗応する。 1580年(天正8年)、安藤守就が北方城を追われ武儀郡谷口に蟄居した後、信長は一鉄に安藤氏の旧領を与えた。この時点で一鉄の勢力は西濃最大のものとなる。以後、西濃諸士の多くは信長によって一鉄につけられたものと考えられる。
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織田信長時代
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直家の死後、宇喜多軍は信長の命令によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍の指揮を執っている。また、戸川秀安や長船貞親、岡利勝(この3人は宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。 6月2日、秀家11歳の時、本能寺の変が起こって信長が死去する。このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名になり、毛利氏の監視役を務めることとなった。
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織田信長時代
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信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や桶狭間の戦いや美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった。ただし、永禄8年(1565年)7月15日付と推定される尾張国の寂光院宛に出された所領安堵の文書には丹羽長秀・佐々主知(成政の一族)とともに署名しており、このころには信長の奉行の1人であった。 永禄11年(1568年)の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の最精鋭として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。 元亀元年(1570年)4月、浅井長政が信長から離反すると5月には六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶った。信長は南岸確保のため各城に6人の武将を配置することとし、まず江南に4人が置かれた。勝家は長光寺城に配属され、同月下旬には六角勢と戦闘となったが、佐久間信盛、森可成、中川重政と共に撃退した。6月、浅井・朝倉との姉川の戦いに従軍する。 同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し、混戦となる。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍した。『言継卿記』によると、勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻されたが、勝家が事態を重大視して信長に進言し、23日に総軍で野田・福島から退却し強行軍で同日夜半に京都に戻り、志賀の陣となる。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込む。 元亀2年(1571年)5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かう。退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、大河と山に挟まれた狙いやすい箇所で一揆勢が襲い掛かり、傷を負い勝家は旗指物まで奪われた。すぐ、氏家直元(卜全)が交代したが小勢であり対応できず、氏家と多くが戦死する。9月の比叡山焼き討ちでは殺戮戦に加わる。 元亀4年(1573年)2月、信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻する。このため4月、信長自ら出陣し、義昭への脅しのために上京に放火させた際は勝家も参加している。なお、この時に信長は下京に対しても矢銭を要求した。この際に下京側が作成した矢銭の献金予定リスト(「下京出入之帳」)には信長個人へ献上する銀250枚に続いて勝家個人とその配下に合計銀190枚を送ることが記載されている。また、同月に信長と義昭が一時的に和睦した際に交わされた起請文には織田家の重臣として勝家は林秀貞・佐久間信盛・滝川一益ならび美濃三人衆とともに署名し、勝家と林ら3名は当時の織田家の年寄(重臣)の地位にあったことをうかがわせる。7月、義昭は槙島城に、義昭の側近・三淵藤英は二条城にそれぞれ立て籠もったが、勝家は藤英を説得し二条城を開城させた。なお、7月1日には信長は4月に下京に命じていた矢銭の献上を免除しているが、勝家は4日付でこの内容を保証する副状を下京側に発給している。その後、勝家は自身も加わった7万という人数で義昭が籠る槙島城を総攻撃し、降伏させた。義昭は追放され事実上室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国・摂津国など各地を転戦する。 天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参加したが、その際の先鋒は羽柴秀吉が務めた。 同年9月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城、酒井城を落とす。長島は大湊の船が十分確保できず退却する。2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死する。天正2年(1574年)に多聞山城の留守番役に細川藤孝に続き3月9日から勝家が入る。同年7月、3度目の最終戦の長島攻めに参軍し総員7万の大軍で兵糧攻めで助命を約束に開城したところをだまし討ちで殲滅する。三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮した。 天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取った。しかしその後の富田の態度から一揆勢は富田と手を切ることとし、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こして富田に襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となった。信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を殲滅戦で平定した。9月、信長は越前国掟全9条(原書には「掟条々」)とともに勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられた。このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権が与えられるが信長が帰陣すると、一揆が蜂起し、小身の簗田は抑えられず信長に見限られ尾張に戻される。 天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている 。 天正5年(1577年)7月、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出してきた。この時、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突、仲違いし、秀吉は信長の許可を得ることもなく戦線を離脱してしまい足並みが乱れる。勝家は七尾城の救援に向かうが間に合わずに七尾城が陥落したため、周辺の拠点に放火しつつ退却した。退却中の9月23日、手取川で上杉軍の襲撃を受ける(手取川の戦い)。勝家側が千人余り打ち取られたという話も、謙信書状のみに書かれているが、他の史料に記載は無く小戦とも見られ不明である。そして天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治が越中中部から上杉軍を逐った。 天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。一向一揆を制圧して、天正8年(1580年)11月、ついに加賀を平定する。さらにその勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たす。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。 翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都御馬揃えでは与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加した。また、このころから対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている(伊達治家記録など)[信頼性要検証]。 天正10年(1582年)3月から上杉氏方の越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していた。6月2日未明、本能寺の変があって信長が横死するが、これを知らぬまま6月3日に魚津城は陥落した(魚津城の戦い)。事件を知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻った。6月10日付の溝口半左衛門への書状では、勝家は光秀が近江に駐屯していると認識し(実際には8日に近江・安土を発ち、9日には山城の京都にいた)、大坂にいた丹羽長秀と連携して、光秀を討つ計画を伝えている。しかし上杉側が変を知り、失地回復に越中・能登の国衆を煽り動けず、やっと18日に近江に出動するが、すでに中国大返しを行った秀吉の軍が光秀を討っていた。
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