だまし‐うち【×騙し討ち】
だまし討ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:41 UTC 版)
こうして、衛鞅は大良造(宰相の爵位)を授けられた。このころ、衛鞅は軍を率いて魏の都安邑を包囲し、これを降した。3年ののち、秦は雍から涇陽(現在の陝西省咸陽市)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた(紀元前350年)。 それ以後、衛鞅は法の規制を強化した。父子兄弟が一軒の家に同居することを禁じた。小さな町や村をあつめて県とし、県令・県丞を置いた。全国がおよそ31県に分たれることとなった。耕作しやすいように畔や境界をつぶして田を広げ、租税率を一律にし、度量衡を統一した(紀元前350年)。これを実施して4年目、こんどは公子虔(中国語版)が法を犯し、鼻切りの刑に処せられた。その後5年、秦はますます富強に向かい、孝公は天子から覇者の称号を贈られ、諸侯はこぞって慶賀した。 あくる年、馬陵で斉が魏を破り、魏の太子申(中国語版)は捕虜となり、将軍の龐涓は戦死した(馬陵の戦い)。その翌年のこと、衛鞅は孝公に進言した。 「 我が国にとって魏は腹中の腫れ物のようなものです。倒すか、倒されるか、道はふたつにひとつです。魏は、東に険阻な山々をひかえて安邑に都をおき、我が国とは黄河で境を接し、中原の富を独り占めにしております。そして、有利とみれば西の我が国を攻め、不利とみれば東へ矛先を向ける。現在、わが君の御威光によって我が国は隆盛、これに対して魏は、斉との戦いに大敗を喫した後で、諸侯からも見放されております。魏を伐つならいまが絶好の機会です。魏は必ずや我が国の攻撃を支えきれず東に都を遷すでしょう。そうなれば、我が国は、天然の山河を要害にして、東方の諸侯を制圧することができましょう。これこそ帝王の業というべきです 」 これには孝公も乗り気で、衛鞅を将軍として魏を攻めさせた。魏は公子卬(中国語版)を将軍にしてこれを迎え撃った。両軍があい対峙したとき、衛鞅は公子卬に一通の親書を送った。 「 わたくしがかつて魏におりましたとき、あなたとは親しくご交際を願っておりました。ところがいまはどうでしょう。お互い敵味方に分かれて攻めあう身、昔のことを思えばなにかとつらいきもちにおそわれます。できれば、直接お目にかかって平和の盟いをたて、お互い、気持よく兵を引こうではありませんか。されば、貴国もわが国もともに安泰と申せましょう 」 公子卬はもっともだと思い、会盟して酒宴に臨んだ。ところが衛鞅は、その席に武装兵をかくしておき、公子卬を襲って捕虜にしてしまった。こうしておいて魏軍を攻め、大勝利をおさめて帰国した。 魏は斉に敗れたうえ、いままた秦にも敗れて、国力は底をつき、日ごとに領土が削られていく。魏の恵王は恐怖におそわれた。そこで秦に使者をたて、河西の地を割譲することを条件にして和議を結んだ。そしてとうとう魏は都の安邑を捨て、大梁に遷都した。 「 あのとき(公叔痤(中国語版)が臨終の際に)、(衛鞅を用いないのなら殺すべきだと言った)公叔痤のことばを聞き入れなかったのが、かえすがえすも残念だ 」 恵王はこう言って嘆いたという。衛鞅が魏を破って帰国すると、孝公は彼を商・於の地に封じた(紀元前340年)以後、衛鞅は商君・商鞅と呼ばれるようになった。
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