遠城兄弟のだまし討ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:57 UTC 版)
「崇禅寺 (大阪市)」の記事における「遠城兄弟のだまし討ち」の解説
正徳5年(1715年)5月14日、大和郡山藩士・遠城宗左衛門重次は剣術の試合で生田伝八郎に勝ったが、これを逆恨みした伝八郎により闇討ちにあい殺害された。10月26日、宗左衛門の兄・遠城治左衛門重広と安藤喜八郎光乗の兄弟は弟の敵討ちのため伝八郎を探しに生國魂神社で祈願していると、境内で伝八郎にばったり出会い、剣を交わそうとするが伝八郎は生國魂神社は神域である事を理由に「後日に果たし合いに応じるべし」と返答し、その果たし合いの場所として伝八郎はこの崇禅寺に場所と日時を指定する。11月4日、崇禅寺馬場にて治左衛門と喜八郎は敵討ちを取ろうとするが、逆に伝八郎は多数の加勢を呼んでおり、治左衛門と喜八郎は返り討ちに会い、無残に殺害された。 一部始終を見届けた元江戸町方与力・勝見宗春はこの兄弟の哀れを思い、当時の崇禅寺住職・門啓天岑と知り合いだったことから埋葬・法要を頼み、遠城兄弟の墓を崇禅寺に築き、菩提を弔った。また、勝見宗春の墓もこの崇禅寺に存在する(崇禅寺馬場の仇討)。
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