織田信長編
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度重なる戦で手痛い敗北を被った織田信秀は美濃との和睦を図り、世継の信長の縁談を道三に申し入れる。道三はこれを了承するものの、ところが信長という男は尾張では知らぬ者のない「うつけ殿」で、奇行ばかり繰り返す評判の馬鹿殿だった。信秀が急逝して家督を継いだ後も素行の悪さは改まることはなかったが、しかし道三は一期の対面で信長の資質を見抜いた。奇矯な振る舞いの奥に常識にとらわれぬ破天荒な想像力を見た道三は、以後舅と婿の関係を超えて厚情を示し、さながら師のように様々な教示を信長に与えた。ほどなく道三は世子の義竜との間に干戈を交えることとなり、信長に美濃一国を譲るという遺言状をしたためて出陣し、長良川の戦いで戦死する。自身の果たせなかった天下取りの夢を信長に託し、徒手空拳で美濃一国を手に入れた梟雄はここにその生涯を終えた。 いま一人、道三には信長と同じくその器量を高く見込んだ者がいた。甥の明智光秀という若者であり、道三はこの光秀の聡明さを高く買って猶子とし、かねてより手ずから教示を与えていた。その才覚を惜しんだ道三の命により美濃を落ち延びた光秀は、諸国を流浪した末に足利将軍家の知己を得る。光秀は室町幕府の再興に己の生を賭けることを誓うが、時を同じくして桶狭間の戦いに臨んだ信長が東海の大大名・今川義元を鮮やかに討ち取ったという噂を耳にする。共に亡き道三の相弟子であるものの、「うつけ殿」に何ができると信長を侮っていた光秀は、その劇的な勝利に衝撃を受ける。信長は次いで美濃を攻め、稲葉山城の戦いでも勝利を得て美濃を併呑した。華々しい戦勝を上げた信長の名は天下に轟くこととなり、もはや「うつけ殿」などと嘲う者はいなくなった。信長は稲葉山城下を岐阜と改め、かつて道三が天下取りを夢見た豊穣の地を手に入れる。 永禄の変で将軍義輝が暗殺された後、光秀は幽閉されていた弟の義昭を救い出し、義昭を新将軍に擁立するべく奔走を始める。光秀はひとまず越前の朝倉氏に庇護を頼むが、朝倉氏は抵抗勢力と交戦してまで京へ上る気はなかった。義昭は旭日昇天の勢いにある信長に将軍擁立を頼むことを望み、快諾した信長によって美濃へと迎えられる。義昭の推挙で信長に仕えることとなった光秀は、織田家中に入ったことにより政軍ともに卓抜したその能力を目の当たりにし、信長への評価をいよいよ改めねばならなくなる。光秀が一驚したのは諸事につけ徹底した信長の合理主義だった。信長は破竹の勢いで抵抗勢力を蹴散らしてたちまち上洛を実現させるものの、その戦術は伝統兵法などまるで無視した徹頭徹尾合理性で貫かれたものだった。信長の合理主義は中世的で非合理な既存の社会を破壊しようとするその統治思想にも現れており、光秀は室町幕府という旧体制の再興の果てに乱世の収拾を見ていたが、信長という男はまったく新たな秩序を創造しようとしていた。遅まきながら道三が信長に目をかけた理由を得心した光秀は、この男はあるいは天下を取るやも知れぬと考えるようになる。義昭の擁立もその権威に人心収攬の価値があるから利用したにすぎず、古い権威に微塵の価値も認めぬ信長はもとより室町将軍への畏敬など欠片も持ってはいなかった。やがて当の義昭も信長のその魂胆を察した。飾り物として奉られるだけの地位に憤慨した義昭は密かに信長討伐の御教書をばら撒き、書状に応じた大名達は諸国で次々と立ち上がり、反織田同盟が形成されて信長は窮地に陥ることとなる。 以後、信長は反織田同盟の切り崩しに躍起になるが、やがて甲斐の太守・武田信玄が上洛を図るという噂が天下を駆け巡った。反信長を標榜する諸大名にとってこの甲州の巨人の西上は最大の切望であったが、ところが信玄は進軍途中に突然の病に斃れて急死する。光秀は信長の強運に驚嘆し、天下を制するのは器量の有る無しではなく、器量を超えた天命を手にする者かと感ずる。信玄の死により、反織田同盟には大きく亀裂が入った。信玄の死を知らずに挙兵した義昭は信長の猛反撃を受けて京を追放され、室町幕府はここに滅亡した。すでに義昭の人物に幻滅していた光秀は敢えて幕府の崩壊を止めようとは思わなかったが、己が半生をかけて成し遂げようとした幕府再興の望みが崩れ去ったことに寂寞たる感慨を抱かずにはいられなかった。将軍家の消滅により光秀は正式に織田家の一将となり、その有能さを買った信長の命で、反抗勢力の討滅に駆け廻ることとなる。将軍追放に続いて信長は仇敵であった浅井・朝倉両氏も滅ぼし、長篠の戦いでは信玄亡き後の武田軍を壊滅させ、本願寺の一向衆も十年余に渡る長期戦の末に屈服させることに成功する。 本願寺の降伏をもって反織田同盟はついに終焉を迎えた。先立って近江に安土城を完成させていた信長は、古今無双の大城郭に居を据え、天下人としての礎を固めた。畿内が平定されたことにより、長年討滅戦に明け暮れた光秀も久方ぶりの閑休を得る。しかし、その心中は平らかではなかった。すでに光秀は信長を天下を取れる傑物と評価を改めていたものの、その人間性に対しては尊崇心を抱けなかった。共に道三から教示を受けた間柄ではあったが、道三の備えていた豊かな古典教養を受け継いだ光秀と、道三の破壊的な資質を受け継いだといえる信長の性格はあまりにも対照的であり、しばし衝突することもあった。また、信長は自らの統一事業を阻む輩は凄惨なやり方でこれを殲滅し、光秀をたびたび戦慄させた。さらに長年の労苦に耐えてきた部下すらも用済みと見るや些細な罪過を咎めて放逐し、人間をさながら道具のようにしか扱わぬその酷薄さにも光秀は恐懼した。中国の平定にも目処がつき、自分という道具がすでに不要と思われ始めていることを察した光秀は、もとより信長とそりの合わぬ自分などいつ同じような非業に遭うかと懊悩する。そう思いつめるほどに、光秀の神経は病み始めていた。やがて山陽道への出征を控え、信長が僅かな供回りを連れただけで京の本能寺に滞在することを知るに及んで、光秀はついに信長に叛旗を翻すことを決断する。 「敵は本能寺にあり」という号令とともに光秀の軍勢は京へ雪崩込み、たちまち本能寺を包囲した。光秀の謀叛を知った信長は、到底これを撥ね退ける術のないことを頓悟するや、是も非も無く己の死を受け入れ、寺に火を放って自刃する。さながら中世秩序を破壊するために生まれてきたような男の遺骸は、豪火に包まれて姿を消した。京を征した光秀はすぐさま近江をも平定し、天下人の象徴たる安土城をも手に入れる。が、時勢は光秀になびかなかった。織田家の諸将は一様に信長の仇討を叫び、光秀の旗の下に参ずる大名は誰一人としていなかった。やがて中国攻めの総司令官であった羽柴秀吉が怒涛の勢いで京へ向かっているという情報がもたらされ、諸将は秀吉を光秀討伐の盟主と仰ぎ、続々とその麾下に参集した。光秀には時代の翹望に応える力がなかった。信長は刻薄残忍という欠点を持ちながらも、その欠点が旧弊を破壊して新たな時代を切り開く力となっていたが、光秀にはそうした力を何も持たなかった。時代は光秀を望まず、いま山陽道を驀進してくる秀吉を迎えようとしていた。やむなく光秀は京南郊の山崎において羽柴軍と対峙することになるものの、所詮は多勢に無勢であり明智軍は無残に潰乱した。光秀は命からがら戦場を脱け出すものの、逃避行の最中に土民の槍にかかって呆気無く落命する。 道三によって大器を見出された二人の男は、その対照的な資質から互いに異なる衣鉢を受け継いだが故に宿命的に相まみえることとなり、共に散った。
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織田信長編
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織田信長 『信長編』の主人公。織田信秀の嫡男。幼少期は奇矯な振る舞いが多く、下人のような格好で領内をふらつき、「うつけ殿」や「たわけ殿」などと陰口を叩かれた。世継としての器量を危ぶむ声も上がったが、信秀は奇行の奥に隠れた才質を見抜き、敢えて家督を継がせた。信秀と同様に道三も信長の可能性を見い出し、自身の成し遂げられなかった天下統一の夢を託し、様々な厚情を与えた。奇抜な発想で既成概念にとらわれない斬新な政略・戦術を次々と編み出し、尾張を統一して美濃をも併呑し、京に旗を立て畿内を制圧し、戦国時代の終焉に筋道をつけた。 さながら子供の精神を残したまま大人になったような性格で、世間一般の常識や作法なども理に合わぬと判断すれば頭から受けつけない。筋金入りの合理主義者で、非合理でものの役に立たぬ中世的権威を甚だ憎み、徹底的に破壊し尽くして新時代を築くことを己の使命と考えている。非合理なものに対しては病的なまでの憎悪を抱き、特に神仏が宗教的権威の上に胡座をかいて暴慢に振る舞うことが許せず、当時としては極めて珍しい無神論者であり神仏や霊魂など目に見えぬものは一切信じない。反面、合理的に洗練された西洋文明には強い関心を抱き、特に鉄砲の効能を見出して大量に手に入れ、その火力で他の大名を圧倒した。実利に徹した性格から人間を機能としてしか見ず、自らの家臣であっても用済みと判断すれば平気で知行を取り上げて放り出すなど、人間をさながら道具のようにしか扱わない。一方で豪放磊落で侠気を見せる者を好み、自身の目にかなった存在には常日頃の様子からは窺えないような情を見せることもある。 己の定めた法を破ることを秋毫にも許さず、領地の統治は厳格を極め、家臣や領民達の誰もがその存在を畏怖した。軍規に関しても一糸の乱れすら許容せずに違反者は厳罰に処し、一号の号令は万雷となって兵達の頭上に落ち、戦慄恐懼をもって統制した。一度戦の火蓋を切れば電光石火の如く軍を進めるものの、事前に入念な準備を重ねて必ず勝てると踏まねば決して動かぬという慎重さも持っており、桶狭間の大勝も奇功であると厳しく自戒し、味をしめて奇功を狙うような戦法を生涯ついに取らなかった。商業の発達した尾張の生まれだけあって経済感覚に富み、農業本位の領国経営思想しか持たなかった当時の大名としては例外的に近代的な経済思想を備えていた。 道三については父の信秀以外に自らの資質を理解してくれた唯一の存在であることから生涯好意を持ち続け、その政治思想や戦法の革新性も大いに好み、自身の政略軍略に踏襲した。光秀に対してはその因循なまでの尚古趣味を嫌い、有能さを高く買いながらも常に虫が好かず、時に感情を爆発させて赫怒のあまり自ら打擲することもあった。 抵抗勢力を果敢に殲滅して近畿をほぼ支配下に置くことに成功し、天下統一への布石を着実に押し進めた。しかし家臣統制のあまりの苛烈さから光秀の謀反を招き、本能寺の変において自害する。 明智光秀 『信長編』のもう一人の主人公。土岐氏の支流である明智氏の出身で、道三の正室・小見の方の甥。幼少の頃より飛び抜けて利発で、道三もその聡明さを愛して猶子に迎え、自らの政治軍略のことごとくを訓育した。長良川の戦いに際してその才能を惜しんだ道三の薦めで美濃から落ち延び、諸国を流浪した末に足利将軍家の知己を得て幕臣として取り立てられ、室町幕府の再興に情熱を燃やすようになる。その後、信長との親交を望む将軍義昭の計らいで織田家の将となり、信長にその有能さを評価されて室町幕府が崩壊した後も重臣として仕え続け、羽柴秀吉と並ぶ織田家の双肩として活躍した。 政治・軍事のあらゆる面に優れ、織田家随一の智将として讃えられた。大局的な見地から戦略を立てるだけでなく、戦場で兵を指揮する能力も非凡であり、個人としても刀槍鉄砲などあらゆる武芸に長じている。さらに詩歌管弦に堪能で万巻の典籍を諳んじるほどのその学才は、天下の武将の中で比類なしと評された。有職故実に通じ典礼にも明るいため、外交官としても稀有な能力がある。豊かな古典教養を身を浸して成人したためか感傷的で涙もろい面もあり、流亡の将軍の境遇を聞けば涙をこぼし、策謀に優れた面からは想像もつかないような可憐さも持っている。唐土の諸葛孔明や文天祥のような主君への忠節を貫いた義人に憧れ、己の生をそのような詩的な生涯として装飾することに強い情熱を抱いている。古典を愛するばかりに頑迷なほどの保守主義者であり、諸事につけて新奇なものを好む信長とは対象的な性格。神仏などまるで信じぬ信長とは逆で宗教的権威に対しても素直にかしずく敬虔さを持っており、叡山焼き討ちの凶行の際には懸命に諫止しようとして信長の逆鱗に触れた。 我が子のように愛し教唆を与えてくれた道三を師として生涯敬慕していたが、道三の革新性に好意を持った信長と異なり、光秀は道三が備える教養の深さに強く惹かれた。共に道三の弟子でありながら信長とはその性格がまるで異なり、何かにつけてそりが合わずに度々衝突した。 その有能さから信長に重用されるも、部下をさながら道具のようにしか扱わない信長の酷薄さに次第に追いつめられてゆき、憔悴しきった末についに本能寺の変の凶行に及ぶ。一時は畿内を征して天下の大名に号令をかけるものの上手くいかず、中国攻めを切り上げて急遽帰還した秀吉の軍に山崎の戦いで潰乱させられる。その後逃亡を図るものの落ち武者狩りの土民の槍にかかって死亡し、その天下はわずか十三日で終わった。 本作では光秀は道三の正室・小見の方の甥として登場するが、史実上は光秀の出自は諸説あって確定していない。同様に光秀の前半生には不明な点が多く、本作ではかなりの部分が創作で補われている。 濃姫 道三の娘で信長の正室。「濃姫」は通称であり、本名は「帰蝶」。道三との和睦を願った信秀のはからいで、織田家に輿入れしてきた。祝言を上げた直後から夫の奇矯な振る舞いに当惑させられるものの真摯に理解しようと務め、精神的な支柱となって信長をよく支えた。誰に対しても無愛想な信長も濃姫には愛情を感じ、この男なりに折にふれて様々な好意を見せた。 生母の小見の方の甥であることから、光秀とはいとこ同士になる。光秀は幼少の頃から面識があった濃姫に密かに想いを寄せており、一時は縁談も持ち上がったこともあった。濃姫が「うつけ殿」と悪名高い信長に縁付いたことから、以後の光秀は特別な感情なしに信長という存在を考えることができなくなり、何かにつけて対抗意識を燃やすようになる。 本能寺の変の際には信長と一緒に本能寺に滞在しており、自ら薙刀をとって戦うものの明智軍の兵に討たれ、信長に先立って死ぬ。史実では濃姫は信長との婚儀を境に史書にその名が登場しなくなり、どのような後半生を送ったのかは定かではなく。本能寺の変で信長とともに死んだというのはあくまで一説である。 羽柴秀吉(木下藤吉郎) 織田家の武将。尾張中村の貧農の出で、諸国を流浪した後に小者として織田家に仕えた。やがて智恵者で機転がよくきくことから信長の抜擢を受けて将校となり、外交・軍略ともに極めて有能なために寵用され、異例の出世を遂げて重臣となる。信長の苛烈なまでの人使いの荒さによく耐え、耐えるだけでなく信長の心の機微を敏感に洞察して巧みに応え、甚だ仕えにくいこの主に誰よりもうまく仕えた。真面目一徹で不器用な光秀は、秀吉ように軽妙な機微を働かせることができず、ともに有能さを買われて重用されながらも信長の心をつかむことはできなかった。 本能寺の変の際には中国攻めの指揮をとっていたが、後世中国大返しと呼ばれる大強行軍でいち早く京に帰還して光秀を討ち破り、信長の後継者としての地位を固める。 明智光春 光秀の重臣。通称は「弥平次」で、歳は離れているが従兄に当たる。牢人の境涯に落ちた頃から光秀と苦楽を共にし、貧困に喘ぎながらも光秀をよく支えた。光秀が大身となってからはその麾下の侍大将となり、政軍ともに高い能力を発揮して甲斐甲斐しく働き、光秀も最良の家臣として強い信頼をおいた。 光秀の死後は近江坂本城で秀吉相手に抗戦するが、籠城の果てに敗れて自害する。 徳川家康 東海の小国・三河の大名。元は隣国の今川氏に隷属していたが、桶狭間の敗戦で今川氏が没落した後に自立して信長と同盟を結び、以後信長の最大の同盟者として行動を共にする。 信義を決して違えぬ律義者として広く知られ、信長も多くの同盟者の中でも格別な信頼を寄せた。誰よりも実直に信長の命を受け入れ、反織田同盟によって信長が危機に晒された際にも決して裏切ろうとせず、信長の人使いの荒さにも愚痴ひとつ言わず素直に応じ、自らの仕事を黙々とこなし続けた。 晩年は「タヌキおやじ」などと呼ばれてまったく逆の評価を得ることになる家康だが、それでも秀吉の死後に多くの豊臣家の家臣が家康を信頼して従ったのは、信長在世時の「律義者」としての評判が役に立ったと司馬は解釈している。 細川藤孝(細川幽斎) 足利将軍家に代々仕える幕臣。近侍していた将軍義輝が京の騒乱を逃れて近江の朽木に流亡していた際、噂を聞いて当地を訪れた光秀と知り合う。互いに幕府再興を願うことから意気投合し、以後盟友として莫逆の契を交わし、共に辛苦を重ねた。政才・軍才ともに備えた稀有な器量人であるが文化人としても優れ、その雅名は京の公家社会にも鳴り響くほどのもの。 時勢を見極めることに卓抜した識見を持ち、自己保全に関しては奸佞といえるほどの鋭敏な感覚を備えている。早くから信長の時代の到来を予見し、信長が反織田同盟の渦中で苦闘していた際にも「幽斎」と号して隠居して将軍家との縁を切り、織田家の家臣となって丹後国に封ぜられた。本能寺の変後は光秀に共闘を持ちかけられるものの、光秀には天下人になる器量がないと判断して見限り、髻を切って頭を丸め、信長を弔う葬礼を粛々と執り行い世評を得た。その後は秀吉に近づいて豊臣政権において重用されるものの、秀吉の死の直後には新たに見込んだ家康に近づき、徳川政権でも息を繋ぐことに成功した。この男が興した細川家は江戸時代を通して大大名として存続し続け、ついには明治まで生き延びた。司馬はこの藤孝のしたたかな生き様を、フランス革命とその後のナポレオン政権下でも変わらずに権力の中枢に居座り続けたジョセフ・フーシェに例えている。 武田信玄 甲斐国の大名。天才的な軍才を持つ武将として広く知られ、最強の名を恣にする武田軍を束ねる存在として諸大名を畏怖させてきた。信長もかねてより信玄の軍才を恐れ、その機嫌を損じないよう親善外交を欠かさずにきた。 かねてより上洛して京に旗を立てることを宿願とし、長年隣国越後の上杉謙信や小田原の北条氏に足を取られていたが、義昭の御教書に応じて遅ればせながら軍を起こす。行く手を阻もうとする家康を三方ヶ原の戦いで蹴散らして進撃するものの、ところが中途で病に斃れそのまま回復することなく急死する。信玄の死は反織田同盟に痛撃を与え、同盟崩壊の決定打となった。 その後武田家は息子の勝頼が継いだものの、長篠の戦いで信長の斬新な鉄砲戦術の前に大敗を喫して往年の勢威を失くし、やがて甲州征伐において滅亡することとなる。 足利義昭 十三代将軍義輝の弟。幼少の頃に出家し、「覚慶」の名で奈良の一乗院の門跡として過ごしていた。やがて松永久秀によって義輝が暗殺されたことにより軟禁されていたが、身の危険を案じた光秀が細川藤孝とともに救出し、その後光秀の奔走により信長の支援を受けて十五代将軍の座に就く。将軍就任当初は信長に恩を感じていたが、自身が飾り物の将軍として扱われていることに気づくや、信長の排除を画策し始める。 大の陰謀好きで、諸国の大名に密かに信長討伐の御教書をばら撒いて反織田同盟を構築し、影の謀主として水面下で様々に暗躍し、たびたび信長の手を焼かせた。聡明ではあるが性格が多分に軽率な上に短慮であり、自身で担ぎ上げた将軍ながらも光秀は次第にその人物に失望していった。長く僧門にいたため世情に疎く、現実がいま一つ解らないところがあり、衰亡しきった室町将軍の権威がいまだに通用すると思い込んでいる。 反織田同盟の柱石であった武田信玄が死んで同盟に大きく亀裂が入ったことを機会に、信長によって京から追放される。義昭が追放された後は後継の将軍が立てられることはなく、室町幕府は事実上崩壊した。 斎藤義竜 道三の世子。土岐頼芸に下賜された深芳野が産んだ子だが、道三の下に来る前から義竜を身籠っており、本来は頼芸の子である。道三は一応は義竜を世子として育てたものの当然ながら愛情など湧かず、常に微妙な距離を置いて接した。六尺五寸(約197cm)・体重三十貫(約111kg)という類を絶した巨軀の持ち主であり、道三は陰で「ばけもの」と呼んで忌み嫌った。 頼芸の胤であることは家中の誰もが知る公然の秘密であったが義竜当人のみは知らず、自身に冷たい道三の態度に苦しみながらも忍従してきたが、やがて思わぬことから出生の秘密を知るに及んで道三に対する憎悪を爆発させ、土岐氏の旗を立てて反乱を起こして道三を討ち取った。道三の死後は土岐氏の正嫡として守護の座に座り、美濃を治めた。義竜を嫌う道三は義竜を愚人と決めつけていたが、政軍ともに有能で辣腕を振るい、信長も容易に手が出せないほどの見事な統治を行った。 しかし守護就任後、ほどなく卒中で斃れて三十五歳の若さで世を去る。跡継ぎの竜興は正真正銘の愚人であり、これを奇貨とした信長は美濃に攻め込み、竹中半兵衛ら斎藤家の家臣の離反もあって稲葉山城の陥落に成功し、美濃を併呑した。 義竜が頼芸の子であるという説はそれを裏付ける当時の史料が存在しないため、現在の研究では後世の創作という見方が有力である。 今川義元 駿河・遠江を領する守護大名。将軍家の分家である今川氏の当主で、東海の覇王ともいうべき大大名。天子・将軍を擁して天下に号令せんと意気込み、上洛を企図して大軍を起こし、信長が家督を継いだばかりの尾張を恐慌に落とし込んだ。悪名高い「うつけ殿」など容易に蹴散らされてしまうと誰もが思ったが、信長は圧倒的な軍威に慢心する義元の油断を突き、桶狭間(正確には田楽狭間)において奇襲攻撃を敢行して見事にその首を上げた。この勝利は信長の名を一躍挙げ、「うつけ殿」の悪評を払拭してその名を高らしめるきっかけとなった。 松永久秀 畿内の実力者。元は京郊外の農村の出身で、京を支配する三好氏の重臣である安田家に仕えていたが、その有能さを重宝されて主家の三好氏の祐筆となり、後に家老にまでのし上がって三好家の家政を牛耳り、ひいては京の実質的な支配者となった。自身の意にそぐわぬ者はたとえ主筋の人間であろうと躊躇することなく暗殺し、ついには将軍義輝までも殺し、下克上の世でも稀なほどに弑逆を繰り返した。弾正少弼の官位から「松永弾正」の名でも知られる。 智謀に優れ、海千山千といった外交能力を備える上に、畿内のどの武将よりも戦に熟達している。政治軍事に優れるだけでなく文雅の才もある風流人でもあり、多彩なその才覚は建築の面でも発揮され、史上初めて天守閣を備えた信貴山城を築いた。道三とは同郷であり、一介の匹夫から美濃の支配者に立身した道三を憧憬し、かねがね私淑していた。 信長が上洛して京を制圧した後は信長に降伏し、織田家旗下の一大名として恭順する。しかしたびたび反織田同盟に加担して裏切りを繰り返し、ついには信長の包囲を受けて信貴山城に立て籠もり、交戦の末に城に火をかけ自害した。 浅井長政 北近江を領する大名。美濃攻めの際に西方の浅井氏との同盟を欲した信長により、妹のお市の方を娶った。そのため信長とは義兄弟の関係にある。 しかし信長が朝倉氏討伐のため越前へ向かった際に突然離反し、朝倉と呼応して織田軍を挟撃し、金ヶ崎の戦いで信長を絶体絶命の窮地に追い込んだ。辛くも難を逃れた信長は、体制を立て直した後に姉川の戦いで浅井・朝倉の連合軍を大敗させ、その後小谷城の戦いで居城を攻め落とし、長政を自害に追い込んだ。長政の死後、信長はその頭蓋を割って杯を作らせ、その杯で酒を呑むという狂気の祝宴を開いた。光秀は信長の常軌を逸した行為に怖気をふるい、その嗜虐性の凄まじさに戦慄した。 荒木村重 織田家麾下の大名。摂津国池田の池田氏に仕え、若くして頭角を現し家老となる。その後池田氏と同盟した信長に有能さを気に入られ、池田氏の代わりに重用される。その後数々の軍功を立てて摂津の国持大名となるものの、ところがほどなく謀反の風説を流される。村重にはもとよりそんな意志などなかったが、猜疑心の異常に強い信長の疑念を払拭することは不可能と考え、やむなく居城の伊丹城に籠城して謀反に踏み切った。 長い抗戦の後に辛うじて逃亡するも、残された一族郎党はことごとく焚殺された。この事件は光秀に信長の敵愾心の強さを改めて思い知らせ、村重の身の破滅を信長に好かれていない我が身に引きあわせて恐怖し、後の本能寺での凶行に踏み切らせる遠因となった。
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織田信長編
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「陸奥圓明流外伝 修羅の刻」の記事における「織田信長編」の解説
『月刊少年マガジン』2001年9月号から2002年4月号にかけて、「海皇紀」を一時休載して連載。単行本の十一巻から十三巻および十三巻裏に収録。 戦国時代を舞台に、伯父である織田信長のためにと暗躍する陸奥の双子・虎彦と狛彦を描く。陸奥圓明流から不破圓明流が分かれた経緯が明かされている。 最終話は双子のそれぞれに焦点を合わせた表と裏の2話が描かれ、この裏を収録した単行本が十三巻とは別に「十三巻裏」として発売された。最終話以外はほぼ同じ内容だが、連載時に掲載された話から、表裏の視点に合わせて一部描写を抜き取る形で収録されている。
※この「織田信長編」の解説は、「陸奥圓明流外伝 修羅の刻」の解説の一部です。
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