織田信長編とは? わかりやすく解説

織田信長編

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 16:10 UTC 版)

国盗り物語」の記事における「織田信長編」の解説

度重なる戦で手痛い敗北被った織田信秀美濃との和睦図り世継信長縁談を道三に申し入れる。道三はこれを了承するものの、ところが信長という男は尾張では知らぬ者のない「うつけ殿」で、奇行ばかり繰り返す評判の馬鹿殿だった。信秀急逝し家督継いだ後も素行悪さは改まることはなかったが、しかし道三は一期対面信長資質見抜いた奇矯振る舞いの奥に常識とらわれぬ破天荒な想像力見た道三は、以後舅と婿の関係を超えて厚情示しさながら師のように様々な教示信長与えたほどなく道三は世子義竜との間に干戈を交えることとなり、信長美濃一国を譲るという遺言状したため出陣し長良川の戦い戦死する自身果たせなかった天下取りの夢を信長託し徒手空拳美濃一国手に入れた梟雄はここにその生涯終えた。 いま一人、道三には信長同じくその器量高く見込んだ者がいた。甥の明智光秀という若者であり、道三はこの光秀聡明さ高く買って猶子とし、かねてより手ずから教示与えていた。その才覚惜しんだ道三の命により美濃落ち延びた光秀は、諸国流浪した末に足利将軍家知己を得る。光秀室町幕府再興に己の生を賭けることを誓うが、時を同じくして桶狭間の戦い臨んだ信長東海大大名・今川義元鮮やかに討ち取ったという噂を耳にする。共に亡き道三の相弟子であるものの、「うつけ殿」に何ができると信長侮っていた光秀は、その劇的な勝利衝撃を受ける信長次いで美濃攻め稲葉山城の戦いでも勝利を得て美濃併呑した。華々しい戦勝上げた信長の名は天下轟くこととなり、もはや「うつけ殿」などと嘲う者はいなくなった信長稲葉山城下を岐阜改め、かつて道三が天下取り夢見た豊穣の地を手に入れる。 永禄の変将軍義輝暗殺された後、光秀幽閉されていた弟の義昭救い出し義昭を新将軍擁立するべく奔走始める。光秀ひとまず越前朝倉氏庇護を頼むが、朝倉氏抵抗勢力交戦してまで京へ上る気はなかった。義昭旭日昇天の勢いにある信長将軍擁立を頼むことを望み快諾した信長によって美濃へと迎えられる義昭推挙信長仕えることとなった光秀は、織田家中に入ったことにより政軍ともに卓抜したその能力目の当たりにし、信長への評価をいよいよ改めねばならなくなる。光秀一驚したのは諸事につけ徹底した信長合理主義だった。信長破竹の勢い抵抗勢力蹴散らしてたちまち上洛実現させるものの、その戦術伝統兵法などまるで無視した徹頭徹尾合理性貫かれたものだった信長合理主義中世的で非合理な既存社会破壊しようとするその統治思想にも現れており、光秀室町幕府という旧体制再興果て乱世収拾見ていたが、信長という男はまった新たな秩序創造しようとしていた。遅まきながら道三が信長に目をかけた理由得心し光秀は、この男はあるいは天下を取るやも知れぬ考えるようになる義昭擁立もその権威人心収攬価値があるから利用したにすぎず、古い権威微塵価値認めぬ信長もとより室町将軍への畏敬など欠片持ってはいなかった。やがて当の義昭信長のその魂胆察した飾り物として奉られるだけの地位憤慨した義昭密かに信長討伐御教書ばら撒き書状応じた大名達は諸国次々と立ち上がり、反織田同盟形成され信長窮地陥ることとなる。 以後信長は反織田同盟切り崩し躍起になるが、やがて甲斐太守武田信玄上洛を図るという噂が天下駆け巡った。反信長標榜する諸大名にとってこの甲州巨人西上最大切望であったが、ところが信玄進軍途中に突然の病に斃れて急死する光秀信長強運驚嘆し天下制するのは器量有る無しではなく器量超えた天命手にする者かと感ずる。信玄死により、反織田同盟には大きく亀裂入った信玄の死を知らず挙兵し義昭信長猛反撃受けて京を追放され室町幕府はここに滅亡した。すでに義昭人物幻滅していた光秀敢えて幕府崩壊止めようとは思わなかったが、己が半生をかけて成し遂げようとした幕府再興望み崩れ去ったことに寂寞たる感慨抱かずにはいられなかった。将軍家消滅により光秀正式に織田家一将となり、その有能さ買った信長の命で、反抗勢力討滅駆け廻ることとなる。将軍追放続いて信長仇敵であった浅井朝倉両氏滅ぼし長篠の戦いでは信玄亡き後武田軍壊滅させ、本願寺一向衆十年余に渡る長期戦の末に屈服させることに成功する本願寺降伏をもって織田同盟はついに終焉迎えた先立って近江安土城完成させていた信長は、古今無双大城郭に居を据え天下人としての礎を固めた畿内平定されたことにより、長年討滅戦に明け暮れた光秀久方ぶりの閑休を得る。しかし、その心中平らかではなかった。すでに光秀信長天下取れ傑物評価改めいたものの、その人間性に対して尊崇心を抱けなかった。共に道三から教示受けた間柄ではあったが、道三の備えていた豊かな古典教養受け継いだ光秀と、道三の破壊的な資質受け継いだといえる信長性格あまりにも対照的であり、しばし衝突することもあった。また、信長は自らの統一事業阻む輩は凄惨なやり方でこれを殲滅し、光秀をたびたび戦慄させた。さらに長年労苦に耐えてきた部下すらも用済みと見るや些細な罪過咎めて放逐し人間さながら道具のようにしか扱わぬその酷薄さにも光秀恐懼した。中国平定にも目処がつき、自分という道具がすでに不要思われ始めていることを察した光秀は、もとより信長とそりの合わぬ自分などいつ同じよう非業遭うかと懊悩する。そう思いつめるほどに、光秀神経病み始めていた。やがて山陽道への出征控え信長僅かな供回り連れただけで京の本能寺滞在することを知るに及んで光秀はついに信長叛旗翻すことを決断する。 「敵は本能寺にあり」という号令とともに光秀軍勢は京へ雪崩込み、たちまち本能寺包囲した光秀謀叛知った信長は、到底これを撥ね退ける術のないことを頓悟するや、是も非も無く己の死を受け入れ、寺に火を放って自刃する。さながら中世秩序破壊するために生まれてたような男の遺骸は、豪火に包まれ姿を消した。京を征した光秀すぐさま近江をも平定し天下人象徴たる安土城をも手に入れる。が、時勢光秀になびかなかった。織田家諸将一様に信長仇討叫び光秀の旗の下に参ずる大名誰一人としていなかった。やがて中国攻め総司令官であった羽柴秀吉怒涛勢いで京へ向かっているという情報もたらされ諸将秀吉光秀討伐盟主仰ぎ続々とその麾下参集した光秀には時代翹望応える力がなかった。信長刻薄残忍という欠点持ちながらも、その欠点旧弊破壊して新たな時代切り開くとなっていたが、光秀はそうした力を何も持たなかった。時代光秀を望まず、いま山陽道驀進してくる秀吉迎えようとしていた。やむなく光秀は京南郊山崎において羽柴軍と対峙することになるものの、所詮多勢に無勢であり明智軍無残に潰乱した。光秀命からがら戦場脱け出すものの、逃避行最中土民かかって呆気無く落命する。 道三によって大器見出され二人の男は、その対照的な資質から互いに異な衣鉢受け継いだ故に宿命的に相まみえることとなり、共に散った

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織田信長編

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国盗り物語」の記事における「織田信長編」の解説

織田信長信長編』の主人公織田信秀嫡男幼少期奇矯振る舞い多く下人のような格好領内ふらつき、「うつけ殿」や「たわけ殿」などと陰口叩かれた。世継としての器量危ぶむ声も上がったが、信秀奇行の奥に隠れた才質見抜き敢えて家督を継がせた。信秀同様に道三も信長可能性を見い出し自身成し遂げられなかった天下統一の夢を託し様々な厚情与えた奇抜な発想既成概念とらわれない斬新な政略戦術次々と編み出し尾張統一して美濃をも併呑し、京に旗を立て畿内制圧し戦国時代終焉筋道をつけた。 さながら子供精神残したまま大人になったような性格で、世間一般常識作法なども理に合わぬ判断すれば頭から受けつけない。筋金入り合理主義者で、非合理でものの役に立たぬ中世権威甚だ憎み徹底的に破壊し尽くして新時代を築くことを己の使命考えている。非合理なものに対して病的なまでの憎悪抱き、特に神仏宗教的権威の上胡座をかいて暴慢振る舞うことが許せず、当時としては極めて珍しい無神論者であり神仏霊魂など目に見えぬものは一切信じない反面合理的に洗練された西洋文明には強い関心抱き、特に鉄砲効能見出して大量に手に入れ、その火力で他の大名圧倒した実利徹した性格から人間機能としてしか見ず、自らの家臣であっても用済み判断すれば平気で知行取り上げて放り出すなど、人間さながら道具のようにしか扱わない一方で豪放磊落侠気見せる者を好み自身の目にかなった存在には常日頃様子からは窺えないような情を見せることもある。 己の定めた法を破ることを秋毫にも許さず領地統治厳格極め家臣領民達の誰もがその存在畏怖した。軍規に関して一糸乱れすら許容せずに違反者厳罰処し一号号令万雷となって兵達の頭上落ち戦慄恐懼をもって統制した一度戦の火蓋を切れば電光石火の如く軍を進めるものの、事前に入念な準備重ねて必ず勝てると踏まねば決し動かぬという慎重さ持っており、桶狭間大勝奇功であると厳しく自戒し、味をしめて奇功を狙うような戦法生涯ついに取らなかった。商業発達した尾張生まれだけあって経済感覚富み農業本位領国経営思想しか持たなかった当時大名として例外的に近代的な経済思想備えていた。 道三については父の信秀以外に自らの資質理解してくれた唯一の存在であることから生涯好意持ち続け、その政治思想戦法革新性大い好み自身政略軍略踏襲した光秀に対してはその因循なまでの尚古趣味を嫌い、有能さ高くいながらも常にが好かず、時に感情爆発させて赫怒のあまり自ら打擲することもあった。 抵抗勢力果敢に殲滅して近畿をほぼ支配下に置くことに成功し天下統一への布石着実に押し進めた。しかし家臣統制のあまりの苛烈さから光秀謀反招き本能寺の変において自害する明智光秀信長編』のもう一人主人公土岐氏支流である明智氏出身で、道三の正室小見の方の甥。幼少の頃より飛び抜けて利発で、道三もその聡明さ愛して猶子迎え、自らの政治軍略ことごとく訓育した。長良川の戦いに際してその才能惜しんだ道三の薦め美濃から落ち延び諸国流浪した末に足利将軍家知己得て幕臣として取り立てられ室町幕府再興情熱を燃やすようになるその後信長との親交を望む将軍義昭計らい織田家の将となり、信長にその有能さ評価され室町幕府崩壊した後も重臣として仕え続け羽柴秀吉と並ぶ織田家双肩として活躍した政治・軍事あらゆる面に優れ織田家随一智将として讃えられた。大局的な見地から戦略立てるだけでなく、戦場で兵を指揮する能力非凡であり、個人として刀槍鉄砲などあらゆる武芸長じている。さらに詩歌管弦堪能万巻典籍諳んじるほどのその学才は、天下武将の中で比類なしと評された。有職故実通じ典礼にも明るいため、外交官としても稀有能力がある。豊かな古典教養を身を浸して成人したためか感傷的涙もろい面もあり、流亡将軍境遇聞けば涙をこぼし、策謀優れた面からは想像つかないような可憐さも持っている唐土諸葛孔明文天祥のような主君への忠節貫いた義人憧れ、己の生をそのような詩的な生涯として装飾することに強い情熱抱いている。古典愛すばかりに頑迷なほどの保守主義者であり、諸事につけて新奇なものを好む信長とは対象的な性格神仏などまるで信じ信長とは逆で宗教的権威に対して素直にかしずく敬虔さ持っており、叡山焼き討ち凶行の際には懸命に諫止ようとして信長逆鱗触れた我が子のように愛し教唆与えてくれた道三を師として生涯敬慕していたが、道三の革新性好意持った信長異なり光秀は道三が備え教養深さ強く惹かれた。共に道三の弟子ありながら信長とはその性格がまるで異なり何かにつけてそりが合わずに度々衝突した。 その有能さから信長重用されるも、部下さながら道具のようにしか扱わない信長酷薄さに次第追いつめられてゆき、憔悴しきった末についに本能寺の変凶行に及ぶ。一時畿内征して天下大名号令をかけるものの上手くいかず、中国攻め切り上げて急遽帰還した秀吉の軍に山崎の戦い潰乱させられるその後逃亡を図るものの落ち武者狩り土民かかって死亡し、その天下はわずか十三日終わった本作では光秀は道三の正室小見の方の甥として登場するが、史実上は光秀出自諸説あって確定していない。同様に光秀前半生には不明な点が多く本作ではかなりの部分創作補われている。 濃姫 道三の娘で信長正室。「濃姫」は通称であり、本名は「帰蝶」。道三との和睦願った信秀はからいで、織田家輿入れしてきた。祝言上げた直後から夫の奇矯振る舞い当惑させられるものの真摯に理解しよう務め精神的な支柱となって信長をよく支えた。誰に対して無愛想な信長濃姫には愛情感じ、この男なりに折にふれて様々な好意見せた生母小見の方の甥であることから、光秀はいとこ同士になる。光秀幼少の頃から面識があった濃姫密かに想い寄せており、一時縁談持ち上がったこともあった。濃姫が「うつけ殿」と悪名高い信長縁付いたことから、以後光秀特別な感情なしに信長という存在考えることができなくなり何かにつけ対抗意識を燃やすようになる本能寺の変の際には信長一緒に本能寺滞在しており、自ら薙刀をとって戦うものの明智軍の兵に討たれ信長先立って死ぬ。史実では濃姫信長との婚儀を境に史書にその名が登場しなくなりどのような後半生送ったのかは定かではなく本能寺の変信長とともに死んだというのはあくまで一説である。 羽柴秀吉木下藤吉郎織田家の武将尾張中村貧農出で諸国流浪した後に小者として織田家仕えた。やがて智恵者で機転がよくきくことから信長抜擢受けて将校となり、外交軍略ともに極めて有能なために寵用され、異例出世遂げて重臣となる。信長苛烈なまでの人使い荒さによく耐え、耐えるだけでなく信長の心の機微敏感に洞察して巧みに応え甚だ仕えにくいこの主に誰よりもうまく仕えた真面一徹不器用な光秀は、秀吉ように軽妙な機微働かせることができず、ともに有能さ買われ重用されながらも信長心をつかむことはできなかった。 本能寺の変の際には中国攻め指揮とっていたが、後世中国大返し呼ばれる強行軍いち早く京に帰還し光秀討ち破り信長の後継者としての地位固める。 明智光春 光秀重臣通称は「弥平次」で、歳は離れているが従兄に当たる。牢人境涯落ちた頃から光秀苦楽を共にし、貧困に喘ぎながらも光秀をよく支えた光秀大身となってからはその麾下侍大将となり、政軍ともに高い能力発揮して甲斐甲斐しく働き光秀最良家臣として強い信頼をおいた。 光秀死後近江坂本城で秀吉相手抗戦するが、籠城果て敗れて自害する徳川家康 東海小国三河大名。元は隣国今川氏隷属していたが、桶狭間敗戦今川氏没落した後に自立して信長同盟を結び、以後信長最大同盟者として行動共にする信義決し違えぬ律義者として広く知られ信長多く同盟者中でも格別な信頼寄せた。誰よりも実直に信長の命を受け入れ、反織田同盟によって信長危機晒された際にも決し裏切ろうとせず、信長人使い荒さにも愚痴ひとつ言わず素直に応じ、自らの仕事黙々とこなし続けた晩年は「タヌキおやじ」などと呼ばれてまったく逆の評価を得ることになる家康だが、それでも秀吉死後多く豊臣家の家臣家康信頼して従ったのは、信長在世時の律義者としての評判役に立った司馬解釈している。 細川藤孝細川幽斎足利将軍家代々仕え幕臣近侍していた将軍義輝が京の騒乱逃れて近江朽木流亡していた際、噂を聞いて当地訪れた光秀知り合う互いに幕府再興を願うことから意気投合し以後盟友として莫逆の契を交わし、共に辛苦重ねた。政才・軍才ともに備えた稀有器量人であるが文化人としても優れ、その雅名は京の公家社会にも鳴り響くほどのもの。 時勢見極めることに卓抜した識見持ち自己保全に関して奸佞といえるほどの鋭敏な感覚備えている。早くから信長の時代到来予見し、信長が反織田同盟渦中苦闘していた際にも「幽斎」と号して隠居して将軍家との縁を切り、織田家の家臣となって丹後国に封ぜられた。本能寺の変後光秀共闘持ちかけられるものの、光秀には天下人になる器量がないと判断して見限り、髻を切って頭を丸め信長弔う葬礼粛々と執り行い世評得たその後秀吉に近づいて豊臣政権において重用されるものの、秀吉の死の直後には新たに見込んだ家康近づき徳川政権でも息を繋ぐことに成功した。この男が興した細川家江戸時代通して大大名として存続し続けついには明治まで生き延びた司馬はこの孝のしたたかな生き様を、フランス革命その後ナポレオン政権下でも変わらず権力中枢居座り続けたジョセフ・フーシェ例えている。 武田信玄 甲斐国大名天才的な軍才を持つ武将として広く知られ最強の名を恣にする武田軍束ねる存在として諸大名畏怖させてきた。信長かねてより信玄の軍才を恐れ、その機嫌損じないよう親善外交欠かさずにきた。 かねてより上洛して京に旗を立てることを宿願とし、長年隣国越後の上謙信小田原北条氏に足を取られていたが、義昭御教書に応じて遅ればせながら軍を起こす行く手阻もうとする家康三方ヶ原の戦い蹴散らして進撃するものの、ところが中途で病に斃れそのまま回復することなく急死する信玄の死は反織田同盟痛撃与え同盟崩壊決定打となったその後武田家息子の勝頼が継いだものの、長篠の戦い信長斬新な鉄砲戦術前に大敗喫して往年の勢威を失くし、やがて甲州征伐において滅亡することとなる。 足利義昭 十三代将義輝の弟。幼少の頃出家し、「覚慶」の名で奈良一乗院門跡として過ごしていた。やがて松永久秀によって義輝暗殺されたことにより軟禁されていたが、身の危険案じた光秀細川藤孝とともに救出しその後光秀奔走により信長支援受けて十五代将軍の座に就く。将軍就任当初信長に恩を感じていたが、自身飾り物将軍として扱われていることに気づくや、信長排除画策し始める。 大の陰謀好きで、諸国大名密かに信長討伐御教書をばら撒いて織田同盟構築し、影の謀主として水面下様々に暗躍し、たびたび信長の手を焼かせた。聡明ではあるが性格多分に軽率な上に短慮であり、自身担ぎ上げた将軍ながらも光秀次第その人物に失望していった。長く僧門にいたため世情疎く現実がいま一つ解らないところがあり、衰亡しきった室町将軍権威いまだに通用する思い込んでいる。 反織田同盟柱石であった武田信玄死んで同盟大きく亀裂入ったことを機会に、信長によって京から追放される義昭追放された後は後継将軍立てられることはなく、室町幕府事実上崩壊した斎藤義竜 道三の世子土岐頼芸下賜され深芳野産んだ子だが、道三の下に来る前から義竜身籠っており、本来は頼芸の子である。道三は一応は義竜世子として育てたものの当然ながら愛情など湧かず、常に微妙な距離を置いて接した六尺五寸(約197cm)・体重三十貫(約111kg)という類を絶した巨軀持ち主であり、道三は陰で「ばけもの」と呼んで忌み嫌った。 頼芸の胤であることは家中誰もが知る公然の秘密であった義竜当人のみは知らず自身に冷たい道三の態度苦しみながらも忍従してきたが、やがて思わぬことから出生の秘密を知るに及んで道三に対す憎悪爆発させ、土岐氏の旗を立てて反乱起こして道三を討ち取った。道三の死後土岐氏正嫡として守護の座に座り美濃治めた義竜を嫌う道三は義竜愚人決めつけていたが、政軍ともに有能辣腕振るい信長容易に手が出せないほどの見事な統治行った。 しかし守護就任後、ほどなく卒中で斃れて三十五歳の若さで世を去る。跡継ぎ竜興正真正銘愚人であり、これを奇貨とした信長美濃攻め込み竹中半兵衛斎藤家家臣離反もあって稲葉山城陥落成功し美濃併呑した。 義竜が頼芸の子であるという説はそれを裏付ける当時史料存在しないため、現在の研究では後世の創作という見方が有力である。 今川義元 駿河遠江領する守護大名将軍家分家である今川氏当主で、東海覇王ともいうべき大大名。天子将軍擁して天下号令せんと意気込み上洛企図して大軍起こし信長家督継いだばかりの尾張恐慌落とし込んだ悪名高い「うつけ殿」など容易に散らされてしまうと誰もが思ったが、信長圧倒的な軍威慢心する義元油断突き桶狭間正確に田楽狭間)において奇襲攻撃敢行して見事にその首を上げた。この勝利信長の名を一躍挙げ、「うつけ殿」の悪評払拭してその名を高らしめるきっかけとなった松永久秀 畿内実力者。元は京郊外農村出身で、京を支配する三好氏重臣である安田家仕えていたが、その有能さ重宝され主家三好氏祐筆となり、後に家老にまでのし上がって三好家家政牛耳り、ひいては京の実質的な支配者となった自身の意にそぐわぬ者はたとえ主筋人間であろう躊躇することなく暗殺しついには将軍義輝までも殺し下克上の世でも稀なほどに弑逆繰り返した弾正少弼官位から「松永弾正」の名でも知られる智謀優れ海千山千といった外交能力備える上に、畿内のどの武将よりも戦に熟達している。政治軍事優れるだけでなく文雅の才もある風流人でもあり、多彩なその才覚建築の面でも発揮され史上初め天守閣備えた信貴山城築いた。道三とは同郷であり、一介匹夫から美濃支配者立身した道三を憧憬し、かねがね私淑していた。 信長上洛して京を制圧した後は信長降伏し織田家旗下一大名として恭順する。しかしたびたび反織田同盟加担して裏切り繰り返しついには信長包囲受けて信貴山城立て籠もり交戦の末に城に火をかけ自害した浅井長政 北近江領する大名美濃攻めの際に西方浅井氏との同盟欲した信長により、妹のお市の方娶った。そのため信長とは義兄弟の関係にある。 しかし信長朝倉氏討伐のため越前向かった際に突然離反し朝倉呼応して織田軍を挟撃し、金ヶ崎の戦い信長絶体絶命窮地追い込んだ辛くも難を逃れた信長は、体制立て直した後に姉川の戦い浅井朝倉連合軍大敗させ、その後小谷城の戦い居城攻め落とし長政自害追い込んだ長政死後信長はその頭蓋割って杯を作らせ、その杯で酒を呑むという狂気の祝宴開いた光秀信長常軌を逸した行為怖気をふるい、その嗜虐性の凄まじさに戦慄した荒木村重 織田家麾下大名摂津国池田池田氏仕え若くして頭角現し家老となる。その後池田氏同盟した信長有能さ気に入られ池田氏代わりに重用される。その後数々軍功立てて摂津の国大名となるものの、ところがほどなく謀反風説流される重にもとよりそんな意志などなかったが、猜疑心異常に強い信長疑念払拭することは不可能と考えやむなく居城伊丹城籠城して謀反踏み切った長い抗戦の後に辛うじて逃亡するも、残され一族郎党ことごとく焚殺された。この事件光秀信長敵愾心強さ改め思い知らせ重の身の破滅信長好かれていない我が身に引きあわせ恐怖し、後の本能寺での凶行踏み切らせる遠因となった

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織田信長編

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:55 UTC 版)

陸奥圓明流外伝 修羅の刻」の記事における「織田信長編」の解説

月刊少年マガジン2001年9月号から2002年4月号にかけて、「海皇紀」を一時休載し連載単行本十一巻から十三巻および十三巻裏に収録戦国時代舞台に、伯父である織田信長のためにと暗躍する陸奥双子虎彦彦を描く。陸奥圓明流から不破圓明流分かれた経緯明かされている。 最終話双子それぞれに焦点合わせた表と裏2話描かれ、この裏収録した単行本十三巻とは別に十三巻裏」として発売された。最終話以外はほぼ同じ内容だが、連載時掲載された話から、表裏視点合わせて一部描写抜き取る形で収録されている。

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織田信長・斎藤道三との関わり

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織田信長伝

織田信長役について

織田信長時代

織田信長登場作品:戦国 - 鬼畜王領国の経営に興味がなく団子屋の店主を務めている大名。妹の香を溺愛している。ランスとは不思議な友情が芽生え彼に影番をまかせたりしている。常に飄々としているが不治の病を患っており、ランスに織田の安泰と香の将来を支えてくれるよう期待している。本人の実力は高く剣の腕はランスと互角かそれ以上、先代死亡後の織田家の衰退ですらも、実は自身亡き後に妹と信頼しうる家臣達だけで保ちうる規模に意図して縮小させていったという計画的なモノと、文武両道に長けた名君であったことが伺える。ランスの活躍で諸国を併合し織田家が力を付けていくのをおだやかに見守っていたが、実は使徒であったペットのサルボボの籐吉郎によって封印を解かれた魔人ザビエルに体をのっとらてザビエル完全復活のためのひょうたん集めに利用され、最終的には完全に肉体を奪われて死亡する。長いRanceシリーズにおいて、リックやバレス、ガンジーなどランスと親しい男性達の中で、唯一ランス自身に「友達だった」と言わしめた人物でもある。彼を殺して蘇った魔人ザビエルに対して、ランスははっきりと友を殺された怒りと、彼の遺した香姫を護ろうという意思を表していた。信長という名前は織田家当主が代々襲名するものであり、かつては上総介と名乗っていた。本編と別のルートによっては最後まで生き延びて国を譲り隠棲したり、本当に何事も無かったりすることもある。『鬼畜王』ではJAPANの大部分を支配する存在として登場する。魔人ザビエルの魔血魂がとりついており信長としての意識はなくほぼザビエルと化している。体の全てを取り戻して完全な魔人として復活することが目的。香姫登場作品:戦国 - クエスト - 鬼畜王技能レベル:槍戦闘LV1 - 護身術LV2信長の妹でやる気のない兄に代わって財政関連を担当している少女。料理は基本的に得意なのだが、なぜか団子だけは正しい手順で作っても虹色の殺人団子になる。兄の信長の体を奪った魔人ザビエルを倒すことで仇を討つ決心をしたり、焦れて特攻しそうになったランスを一喝したりと幼いながらも強い心の持ち主である。戦国

織田信長編

織田信長軍

織田信長軍による攻め入り

織田信長頑駄無

織田信長:木村拓哉

織田信長:森脇史登→恩田括

織田信長:玄田哲章

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