将軍追放とは? わかりやすく解説

将軍追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:59 UTC 版)

源頼家」の記事における「将軍追放」の解説

景時滅亡から3年後建仁3年1203年5月頼家千幡乳母阿波局の夫で叔父である阿野全成謀反人の咎で逮捕殺害した。さらに阿波局逮捕しようとしたが、阿波局姉妹である政子引き渡し拒否する。 全成事件前の3月頃から体調不良現れていた頼家は、7月半ば過ぎ急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家存命しているにも関わらず鎌倉から「9月1日頼家病死したので、千幡が後を継いだ」との報告9月7日早朝都に届き千幡征夷大将軍任命要請されたことが、藤原定家日記明月記』の他、複数京都側の記録確認されている。使者鎌倉発った前後思われる9月2日鎌倉では頼家乳母父で長男一幡外祖父である比企能員北条時政によって謀殺され、比企一族滅ぼされた(比企能員の変)。 一人残った頼家多少病状回復して事件知り激怒時政討伐命じるが従う者はなく、9月7日鎌倉殿地位追われ千幡がこれに替わった。これによって時政幕府実権握ることになる。 『吾妻鏡』によると、「頼家重病のため、あとは6歳長男一幡継ぎ日本国守護関東28ヶ国の総地頭となり、12歳の弟・千幡には関西38ヶ国の総地頭を譲ると発表された。しかし千幡譲られることに不満を抱いた能員が、千幡北条氏討伐企てた」(8月27日条)。「病床頼家と能員による北条氏討伐密議障子の影で立ち聞きしていた政子時政報告し先手打った時政自邸に能員を呼び出して殺害一幡屋敷攻め比企一族滅ぼし一幡焼死した」(9月2日条)としている。 京都側の記録である『愚管抄』によれば頼家大江広元屋敷滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡譲ろうとした。これでは比企能員全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡殺そう軍勢差し向けた一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け修禅寺押し込めてしまった。11月になって一幡捕らえられ北条義時の手勢に刺し殺されたという。

※この「将軍追放」の解説は、「源頼家」の解説の一部です。
「将軍追放」を含む「源頼家」の記事については、「源頼家」の概要を参照ください。

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