将軍誘拐の企て
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「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「将軍誘拐の企て」の解説
1965年10月1日早朝、「9月30日運動」と自称する部隊が、ナスティオンを含む7人の反共派将軍を拉致する動きに出た 。 その日の朝、ナスティオンの妻は家のドアがこじ開けられる音を聞いた。何事かと不審に思って、ナスティオン夫人はベッドから出て調べようとした。寝室のドアが開くと、一人の兵士が銃を発砲しようと構えたのを見た。すぐにドアを閉めて、ナスティオンに逃げるよう言った。自分でも確認しようとしたナスティオンがドアを開けると、兵士が発砲した。かろうじて銃弾から逃れたナスティオンはドアを閉め、妻に押し出されるようにして寝室の窓から逃れた。ナスティオンはたまたま隣人だったイラク大使宅に逃げ込み、その庭の中に隠れた。 ナスティオン宅では、9月30日運動側の部隊がナスティオン本人をくまなく探し始めたので、家中がパニックになった。混乱が続く中で、ナスティオンの娘と妹が撃たれた。妹の方は後に回復したが、娘のアデ・スルヤニは致命傷を受けた。結局兵たちは、ナスティオンの副官であるピエール・テンデアン中尉を拘束して去っていった。テンデアンは暗闇の中でナスティオンに間違えられ、拉致されたのである。 ナスティオンは隣人宅の庭に隠れ続け、午前6時、負傷した足首を引きずりながら自宅に戻った。ナスティオンは副官たちに、国防治安省に自分を連れて行くように命じた。そちらの方が自宅より安全だと考えた。車中では床にうずくまっていた。ナスティオンは KOSTRAD 本部にいるスハルトに伝言を送り、自分が生きていて安全であることを伝えた。スハルトが陸軍の指揮を執っていることを知って、ナスティオンは大統領の居場所を確認するようにと、スハルトに命令を出した。同時に、海軍司令官マルタディナタ、海兵隊司令官ハルトノ、警察長官スシプト・ユドディハルジョにも連絡を取り、首都ジャカルタへ通じるすべての道路を封鎖し、首都の安全を確保するよう、命令を出した。同様の命令が空軍に出されなかったのは、空軍司令官オマール・ダニが9月30日運動の同調者と見られていたためだった。 スハルトはすぐにこれらの命令を彼の首都治安作戦計画に取り入れた。午後2時頃、9月30日運動側が革命評議会の設立を発表すると、ナスティオンは別の命令をスハルト、マルタディナタ、ユドディハルジョに下した。その命令の中で、ナスティオンはスカルノが誘拐され、9月30日運動本部のあるハリム空軍基地に連れて行かれたに違いない、と語っている。そこでナスティオンは国軍に対し、大統領救出、ジャカルタの治安確保を命じ、そして(最も重要なことだが)スハルトに作戦の全指揮権を与えた。作戦実行にスハルトが取りかかり始めた頃、ハリム空軍基地にいるスカルノからメッセージが届いた。スカルノはプラノト・レクソサムドラ少将を陸軍司令官に任命することを決心し、プラノトにハリム空軍基地まで出頭するよう求めた。スハルトはプラノトにスカルノの元に行くことを許さなかったが、彼はまた、スカルノがプラノトの呼び出しを決して諦めないであろうと先を読んでいた。そこでスハルトは、交渉力を強化するため、ナスティオンに KOSTRAD 本部に来てくれるよう頼んだ。 ナスティオンが午後6時頃にKOSTRAD 本部に到着したちょうどその頃に、スハルトは9月30日運動からジャカルタの治安を守るためにサルウォ・エディ・ウィボウォ指揮の部隊を派遣するところだった。そこでナスティオンはやっと負傷した足首の応急処置を受けた。ジャカルタの安全がいったん確保されると、マルタディナタがKOSTRAD 本部にやって来て、プラノトを陸軍司令官に任命するという大統領令のコピーを見せた。これを見てスハルトはマルタディナタとナスティオンを一室に招き入れ、状況について話し合った。 ナスティオンはスカルノがどのようにしてプラノトを指名したのかをマルタディナタにたずねた。マルタディナタが答えたのは、午後、ハリム空軍基地で、自分とユドディハルジョ、ダニがスカルノと協議し、ヤニ亡き今、誰が陸軍司令官になるべきかを話し合った。そこでプラノトを陸軍司令官にすると決定されたのだという。これを聞いてナスティオンは、スカルノの任命は受け入れられない、その任命の知らせはスハルトが作戦を開始したときに届いたからだ、と言った。さらにナスティオンは、プラノトをハリム空軍基地に出頭させなかったスハルトの決定を支持すると付け加えた。それからナスティオンとスハルトはプラノトを招き入れ、スハルトがクーデタ鎮圧を終えるまで陸軍司令官の任命を受けないように説得した。 サルウォ・エディの部隊によってジャカルタの治安が回復されるのに時間はかからなかった。次にスハルトはハリム空軍基地に目を向け、空軍基地への攻撃準備に取りかかった。スハルトを支援するためにナスティオンは海軍・警察軍にも、スハルトの鎮圧作戦を支援するよう命じた。空軍に対してもナスティオンは命令を出し、彼らがダニの命令に従わなくても、命令不服従の罪で訴追されることはないと呼びかけた。公式には10月2日午前2時、ハリム空軍基地は奪還され、9月30日運動は鎮圧された。
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