将軍親政と三好氏との共闘とは? わかりやすく解説

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将軍親政と三好氏との共闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)

足利義輝」の記事における「将軍親政と三好氏との共闘」の解説

永禄元年以降義輝帰京したのち、三好長慶三好氏支柱とし、政治的立場安定させた。義輝治世実質的にここから始まり、またそれを補佐したのは上野信孝進士晴舎であったまた、義輝生母慶寿院やその兄弟近衛稙家大覚寺義俊聖護院道増久我晴通らが補佐した永禄3年5月長慶河内畠山高政征伐対象とし、義輝承認求めた高政応戦姿勢見せたため、8月長慶伊勢貞孝通して義輝紀伊湯川直光三好方に付くよう求め御内書発給求めた。直光は高政に近い立場にあったが、湯河氏奉公衆として幕府代々仕えていたため、長慶義輝利用して高政側の切り崩し図った10月2日長慶細川晴元香西氏らと法禅寺挙兵したことを受けて義輝に貞孝を通して比叡山延暦寺六角義賢に対して晴元追い払うことを命じ御内書発給求めた延暦寺六角氏の対応は不明であるが、細川方が京の各所放火しため、内藤宗勝が丹波より出陣し、これを破っている。 同月15日三好実休高政援軍として駆け付けた紀伊根来衆打ち破り畠山氏敗北決定的となった同月24日河内飯盛山城が、27日高屋城開城し、高政は堺に退去した。 11月13日長慶飯盛山城に、実休が高屋城入城し河内大和平定されると、同月24日義輝長慶飯盛山城入城賞する御内書発給した永禄4年1561年5月長らく三好旗頭であった晴元長慶との和睦応じ出家して摂津冨田普門寺入った長慶先手打ち晴元六角氏らに利用されることを阻止した7月畠山高政六角義賢結んで畿内蜂起し久米田で7ヶ月わたって対陣した畠山氏六角氏蜂起は、畿内伸長する三好封じ込め意図があったされる。このとき、同月23日義輝紀伊湯川直光対し高政義賢出陣してきたので、長慶・義興父子味方するように御内書発給し高政牽制している。 永禄5年1562年3月三好軍が畠山六角軍と久米田交戦して敗北し、実休が戦死した久米田の戦い)。このとき、義輝三好氏とともに京を去り石清水八幡宮入り三好氏との連携維持した。だが、伊勢貞孝はこのとき三好氏反目していたため、六角軍が占拠した京に留まり続け政所沙汰公然と行った5月20日三好軍が畠山軍を破り、京を奪い返したため、六角軍が京から撤兵した(教興寺の戦い)。六角味方していた貞孝は京から坂本逃げ義輝長慶支持してこれを更迭した。貞孝が幕府法を無視した裁決行っていたことが発覚したのも、更迭の理由とされる。これに激怒した貞孝は兵を集めて反乱起こしたが、三好勢によって入京阻まれ9月近江杉坂討たれた。 貞孝の死後義輝近臣摂津晴門新たな政所執事とし、伊勢氏人物任用しなかった。これによって、かつての3代将軍足利義満介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配歴史に幕閉じ幕府将軍による政所掌握への道を開いたまた、伊勢氏独占されていた莫大な権益を自ら掌握することで、将軍として地盤強固なものにした。

※この「将軍親政と三好氏との共闘」の解説は、「足利義輝」の解説の一部です。
「将軍親政と三好氏との共闘」を含む「足利義輝」の記事については、「足利義輝」の概要を参照ください。

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