将軍親政と三好氏との共闘
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「足利義輝」の記事における「将軍親政と三好氏との共闘」の解説
永禄元年以降、義輝は帰京したのち、三好長慶ら三好氏を支柱とし、政治的立場を安定させた。義輝の治世は実質的にここから始まり、またそれを補佐したのは上野信孝と進士晴舎であった。また、義輝の生母・慶寿院やその兄弟の近衛稙家、大覚寺義俊、聖護院道増、久我晴通らが補佐した。 永禄3年5月、長慶は河内の畠山高政を征伐の対象とし、義輝の承認を求めた。高政が応戦の姿勢の見せたため、8月に長慶は伊勢貞孝に通して、義輝に紀伊の湯川直光に三好方に付くよう求める御内書の発給を求めた。直光は高政に近い立場にあったが、湯河氏は奉公衆として幕府に代々仕えていたため、長慶は義輝を利用して高政側の切り崩しを図った。 10月2日、長慶は細川晴元が香西氏らと法禅寺で挙兵したことを受けて、義輝に貞孝を通して、比叡山延暦寺と六角義賢に対して晴元を追い払うことを命じる御内書の発給を求めた。延暦寺や六角氏の対応は不明であるが、細川方が京の各所を放火しため、内藤宗勝が丹波より出陣し、これを破っている。 同月15日、三好実休が高政の援軍として駆け付けた紀伊の根来衆を打ち破り、畠山氏の敗北は決定的となった。同月24日に河内の飯盛山城が、27日に高屋城が開城し、高政は堺に退去した。 11月13日、長慶が飯盛山城に、実休が高屋城に入城し、河内と大和が平定されると、同月24日に義輝は長慶に飯盛山城入城を賞する御内書を発給した。 永禄4年(1561年)5月、長らく反三好の旗頭であった晴元が長慶との和睦に応じ、出家して摂津冨田の普門寺に入った。長慶は先手を打ち、晴元が六角氏らに利用されることを阻止した。 7月、畠山高政と六角義賢が結んで畿内で蜂起し、久米田で7ヶ月にわたって対陣した。畠山氏・六角氏の蜂起は、畿内で伸長する三好の封じ込めの意図があったされる。このとき、同月23日に義輝は紀伊の湯川直光に対し、高政と義賢が出陣してきたので、長慶・義興父子に味方するように御内書を発給し、高政を牽制している。 永禄5年(1562年)3月、三好軍が畠山・六角軍と久米田で交戦して敗北し、実休が戦死した(久米田の戦い)。このとき、義輝は三好氏とともに京を去り、石清水八幡宮に入り、三好氏との連携を維持した。だが、伊勢貞孝はこのとき三好氏と反目していたため、六角軍が占拠した京に留まり続け、政所沙汰を公然と行った。 5月20日、三好軍が畠山軍を破り、京を奪い返したため、六角軍が京から撤兵した(教興寺の戦い)。六角に味方していた貞孝は京から坂本に逃げ、義輝は長慶を支持してこれを更迭した。貞孝が幕府法を無視した裁決を行っていたことが発覚したのも、更迭の理由とされる。これに激怒した貞孝は兵を集めて反乱を起こしたが、三好勢によって入京を阻まれ、9月に近江杉坂で討たれた。 貞孝の死後、義輝は近臣の摂津晴門を新たな政所執事とし、伊勢氏の人物を任用しなかった。これによって、かつての3代将軍・足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。また、伊勢氏に独占されていた莫大な権益を自ら掌握することで、将軍としての地盤も強固なものにした。
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