将軍義輝の復権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
だが、将軍と対立し幕府機構に頼らないまま京都の支配を維持することは困難であった。その上、義輝が朽木へ動座した後も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。永禄元年(1558年)、長慶は六角義賢の支援する義輝や細川晴元の攻撃を受け、戦況は優位に推移していたものの、六角の仲介を容れて和睦した。義輝は5年ぶりに帰洛し、長慶は御相伴衆に列せられて有力大名としての待遇を受けることとなり、幕府は将軍・三好氏が協調する形で復活した。三好政長の子でこれまで敵対してきた三好宗渭も長慶に従った。 長慶はこの頃から政権を支える有力な一族を相次いで失う。永禄4年(1561年)に弟の十河一存が病死。翌5年(1562年)には阿波衆を率いる弟三好実休が畠山高政との戦いで戦死(久米田の戦い)。6年(1563年)には嫡男義興も22歳の若さで病死した。さらに7年(1564年)には弟の安宅冬康に嫌疑をかけて自害させたが、長慶自身すでに衰弱しており同年7月に没した。三好氏の当主は、十河一存の子で長慶の養子となっていた義継が相続した。 三好氏の勢威に陰りが見える一方で、将軍義輝は全国の大名に紛争調停を行なったり幕府の役職を与えたりして将軍権威の回復を図った。永禄2年(1559年)には、美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛した。また、永禄7年には敵対していた政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、従来将軍の意向が及ばなかった政所を掌握して幕府決裁に対する影響力を強め将軍親政を進めようとした。
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