将軍継嗣問題 - 安政の大獄
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「安島帯刀」の記事における「将軍継嗣問題 - 安政の大獄」の解説
実兄・戸田忠太夫や藤田東湖が安政の大地震により亡くなったため、安政5年(1858年)7月、斉昭の命により水戸藩家老に任ぜられる(水戸藩執政と記されることも多い)。また、家老昇進にあたっては身分に相応しい名として、朝廷の正式な官職に次ぐ由緒のある百官名、帯刀を称する様になった。 就任前後は13代将軍・徳川家定の後継を巡って井伊直弼や松平頼胤(高松藩主)といった譜代大名や家門の門閥層が徳川の嫡流に近い紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立して南紀派を形成し、かたや徳川斉昭を中心に親藩にて家門筆頭たる福井藩の松平春嶽、雄藩の当主である薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城などの幕末の四賢侯が英邁で聞こえる斉昭の七男・一橋慶喜を奉じて一橋派を形成して対抗していた時であった。帯刀も主君・斉昭の実子である慶喜を将軍とすべく奔走した。 帯刀は一橋家臣の平岡円四郎や福井藩士の中根雪江・橋本左内、儒者の梅田雲浜、公家の家臣・飯泉喜内、五摂家筆頭の近衛家老女・村岡、水戸徳川家の縁戚にあたる鷹司家や三条家、その他に薩摩藩士の西郷隆盛にも通じた。帯刀自身も黒船来航など西欧列強の脅威がふりかかる国難に対処し得る将軍として慶喜に期待をしており、慶喜のことを「徳川の流れを清ましめん御仁」と評している。 こうしたことから、帯刀は水戸藩内に留まらず、幕府の守旧派からも憎まれる存在となっていった。その様な折に朝廷が水戸藩に幕府への尊皇攘夷を促す様に命じた戊午の密勅に関与したと疑われ、幕府評定所より召還され三田藩上屋敷に軟禁されることとなった。水戸藩主・徳川慶篤は御三家の家老が幕府に囚われるなど前代未聞ですぐに解放する様に要請したが、適わなかった。幕府の尋問により、帯刀は無罪とされたものの、大老・井伊直弼より再審議を命じられ、さらに無罪とされると井伊自ら帯刀に切腹を命ずることとなった。『水戸藩史料』に曰く「信立の審を受くる挙止慎重言句もせず罪を一身に受け義によりて屈せず幕府有司も皆其の器識徳量に感称し其の死を惜しまざるはなし」と伝えている。 安政6年(1859年)8月27日、駒込の三田藩邸において切腹。享年49。 遺体は甥の水戸藩家老・戸田銀次郎宅に収容され、遺族に引き渡された。墓所は茨城県水戸市酒門町の酒門共有墓地。墓石には「帶刀安島府君墓」と刻まれている。その後、文久2年(1863年)11月28日、帯刀の罪は勅命を以って無効とされ、その名誉を回復している。 維新後の明治12年(1879年)、靖国神社に奉祀されている。明治24年(1891年)、正四位が贈位された。
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将軍継嗣問題・安政の大獄
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「山内容堂」の記事における「将軍継嗣問題・安政の大獄」の解説
豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し、政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。
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