将軍職の解任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:15 UTC 版)
将軍の九条頼経は寛元2年(1244年)の時点で27歳に成長していた。そのため、将軍の側近には北条光時、三浦泰村など反執権勢力による集団が形成されつつあり、得宗家と対抗するようになっていた。経時はこの側近集団を解体するため、頼経の将軍職を寛元2年(1244年)4月に解任させた。新将軍には頼経の子の九条頼嗣を擁立し、頼嗣を急いで元服させて烏帽子親は経時自らが務めた。これらは頼経の解任、頼嗣の擁立に経時が主導的立場を果たしている事をうかがわせている。 しかし前将軍となった頼経はなおも鎌倉に留まって頼嗣を補佐した。頼嗣の将軍宣旨の書状を御所に持参した際、それを受け取ったのは頼経であった。頼経は「大殿」「前大納言家」と尊称され(『吾妻鏡』)、また三浦光村や千葉秀胤らが新たに評定衆に加えられるなど(『関東評定衆伝』)、反執権派の巻き返しも行なわれた。このため、経時は頼経の京都への送還を計画したが、12月に幕府政所や経時、時頼の屋敷が失火に見舞われるなどしたため失敗する。なお、この計画については、頼経が自己を含めた側近たちの官位昇進を図って北条氏に対して有利な政治的状況を作り出すために考え出された反執権派によって計画された頼経の上洛計画であり、むしろその危険性に気付いた経時兄弟が上洛中止の口実作りのために意図的に自らの屋敷に火を放った可能性もあるとする異論も出されている。また、経時自身も頼経の烏帽子子であり、さらに小侍所別当を務めたりなど頼経、三浦家等と親密な関係にあり、頼経やその一派にとれる態度には自ずと限界があったのも確かである。 このため寛元3年(1245年)7月26日、頼嗣に妹の檜皮姫を嫁がせた。この結婚には暦の上で縁起が良くないなど反対意見も多かったが、経時はあえて強行した(『吾妻鏡』)。この結婚で経時の得宗家は頼嗣の外戚としての立場を獲得し、将軍の後見役となり反執権派を一時的に押さえ込む事に成功した。
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