将軍継嗣問題とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 歴史民俗用語 > 将軍継嗣問題の意味・解説 

将軍継嗣問題

読み方:ショウグンケイシモンダイ(shougunkeishimondai)

江戸幕府13代将徳川家定継嗣をめぐる紛争


将軍継嗣問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/28 06:28 UTC 版)

将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)は、江戸幕府13代将軍徳川家定の後継を巡って生じた政争である。

概要

江戸幕府12代将軍徳川家慶の嫡男・家祥(後の家定)は病弱で言動も定かではなかった(脳性麻痺とも言われている)。そこで、家慶は水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家を継いでいた徳川慶喜(一橋慶喜)を養子とすることを考えたが、老中阿部正弘の反対で思いとどまり、家定に不測の事態が起きた際に慶喜を後継とすることとした(ただし公式に確定されてはいなかった)。

黒船が来航の直後、家慶が死去した混乱の中、日本は日米和親条約締結を余儀なくされる。しかし、家慶の後を継いだ家定は将軍就任後、さらに病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり、政務が満足に行えなかった。しかも子はなく、その後継者問題が急浮上した。

これを憂慮した島津斉彬松平慶永・徳川斉昭ら有力な大名は、大事に対応できる将軍を擁立すべきであると考えて、斉昭の実子である一橋慶喜擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した。これに対して保守的な譜代大名大奥は、家定に血筋が近い従弟の紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようとした。前者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。

ところが阿部正弘が急死すると、阿部による安政の改革に反発する譜代大名の巻き返しが始まり、「大奥の粛正」を唱える斉昭に反発する大奥もこれに加担する。さらに条約勅許問題を巡る開国派と攘夷派の対立も加わって事態は複雑となった(一橋派では島津斉彬は開国派、徳川斉昭は攘夷派に属し、互いに自己の外交路線実現のために一橋慶喜擁立を目指した。これは南紀派も同様であった)。

だが安政5年(1858年)、家定が重態となると、南紀派の譜代大名は彦根藩主井伊直弼大老に据えて、6月に家定の名で後継者を慶福とすることが発表された。これについては南紀派による画策であると言われているが、家定自身も廃人もしくはそれに近い重態ではあったものの、完全に意思能力が失われていたわけではないため、本人の意向で自分の対抗馬である慶喜を嫌って個人的に気にかけていた慶福を指名したとする見方もある。家定の側小姓で後に勘定奉行などを歴任した朝比奈閑水の回想の記録には、家定は「自分より慶喜の方が美形で慶喜が登城すると大奥が騒ぐ」という理由で慶喜に反感を抱いていたと記されている。久住真也「幕末の将軍」(講談社)によれば、一橋派の言い分自体が家定を「暗愚、愚昧、病弱」扱いするに等しいもので「まだ若く世子誕生の見込みもある」と認識していた家定は一橋派を憎悪していたという。いずれにしても南紀派の勝利に終わった事実は間違いなく、7月に家定が没すると、慶福は「家茂」と改名して新しい将軍となった。

同年6月、一橋派による京都工作が功を奏し、朝廷より「英明・年長」を兼ね備えた者を将軍継嗣とすべき、とする勅書が幕府に下ったが、江戸城内において志賀某がこれを10日間以上にわたり隠匿し続け、結果勅書の指示が反映されない形で家茂が後継者になった、とする風説が当時流れたが、勅書が下ってからの経緯については、どこまでが真実なのか、詳らかではない。ただし、志賀は同年6月に自殺しており、直弼の意向に追従した行動であったが、結果朝廷の意向を無視した責任を取らされることになった、と考えられる。

家茂を将軍とした井伊直弼は、徳川慶頼田安家当主)を形だけの将軍後見職に立てて、一橋派を初めとする反対派の粛清(安政の大獄)に乗り出す。だが、井伊は桜田門外の変で暗殺され、斉彬の弟島津久光の率兵上京による文久の改革で一橋派は復権する。このとき徳川斉昭は既に鬼籍の人となっていたが、一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政事総裁職に就任、慶喜は家茂の死後に15代将軍に就任する。

関連項目


将軍継嗣問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:49 UTC 版)

徳川家定」の記事における「将軍継嗣問題」の解説

詳細は「将軍継嗣問題」を参照 家定正室として鷹司政煕の娘・任子天親院有君)や一忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕養女・敬子(天璋院)との間にも実子生まれなかった。このため将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定病気悪化した安政4年1857年)頃からは、それが激化する家定後継者候補として井伊直弼南紀派推薦する紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬徳川斉昭一橋派推す一橋慶喜徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣めぐって争った家定この間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日1858年8月4日)、諸大名招集し従弟である慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向伝え安政5年7月5日1858年8月13日)に一橋派諸大名処分発表するという異例行動見せた家定将軍らしい行動見せたのは、これが最初で最後であった安政5年7月6日1858年8月14日)、死去享年35養子となった慶福改め家茂が跡を継いだ

※この「将軍継嗣問題」の解説は、「徳川家定」の解説の一部です。
「将軍継嗣問題」を含む「徳川家定」の記事については、「徳川家定」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「将軍継嗣問題」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「将軍継嗣問題」の関連用語

1
徳川家定 デジタル大辞泉
100% |||||

2
堀田正睦 デジタル大辞泉
92% |||||

3
岩瀬忠震 デジタル大辞泉
92% |||||

4
間部詮勝 デジタル大辞泉
92% |||||



7
伊勢貞親 デジタル大辞泉
74% |||||

8
島津斉彬 デジタル大辞泉
74% |||||

9
徳川家茂 デジタル大辞泉
74% |||||

10
徳川慶喜 デジタル大辞泉
74% |||||

将軍継嗣問題のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



将軍継嗣問題のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの将軍継嗣問題 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家定 (改訂履歴)、徳川慶喜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS