将軍綱吉の親裁(再審)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 19:30 UTC 版)
延宝8年(1680年)5月、将軍家綱が死去し、弟の綱吉が5代将軍に就任した。酒井忠清は大老を辞任する。 綱吉はかつて忠清が、家綱の危篤に際して自分ではなく皇族(有栖川宮幸仁親王)を迎えて将軍に立てようと主張していたことを深く恨んでいたとされる。また、高田藩への先の裁定にも不満を持っていた。忠清が擁立しようとしていた有栖川宮の祖にあたる高松宮好仁親王の妃が光長の妹であったことも、綱吉の疑念を深めていた。さらに、光長が忠清を支持して皇族将軍を支持したことも恨みとなっていた。これを利用する形で、お為方は老中堀田正俊を頼って騒動の再審を願い出た。同じ頃、高田ではお為方の壱岐と本多七左衛門が光長に暇乞いを願い出た。両人は将軍に御目見した家臣であり、その処遇には幕府の許可が必要であったため、光長は幕府にお伺いを出した。綱吉はこの機会を捉え、先の裁定の再審を許可した。 再審は同年12月に始まり、美作、壱岐、七左衛門、それに長州藩にお預けとなっていた大蔵ら5名に江戸出府が命じられた。美作とお為方は江戸に召集され、お為方は美作の悪政と専横(贅沢で人心を堕落させ、豪華な屋敷をつくったことなど)を陳情し、さらに子の長治を世継ぎにしようと企てたと主張した。詮議は続き、年を越して延宝9年(1681年)6月21日、美作、大蔵、主馬が江戸城に召喚され、将軍綱吉および幕閣の首脳陣や元老・旗本らが四方を取り囲む中で吟味が行われた。質疑の後、綱吉は翌22日に裁定を下した。江戸城での詮議終了時に綱吉は「これにて決案す。はやまかり立て」と大声を発し、場にいた者を震えあがらせたと伝わる。
※この「将軍綱吉の親裁(再審)」の解説は、「越後騒動」の解説の一部です。
「将軍綱吉の親裁(再審)」を含む「越後騒動」の記事については、「越後騒動」の概要を参照ください。
- 将軍綱吉の親裁のページへのリンク