井伊直弼
いい‐なおすけ〔ゐいなほすけ〕【井伊直弼】
井伊直弼
井伊 直弼 (いい なおすけ)
1815〜1860 (文化12年〜万延元年) |
【大老】 雪の桜田門外に散った、開国論の幕府大老。 |
幕末大老。彦根藩主。1853年ペリー浦賀来航に際し、彦根藩として相洲警備の重責を果たした。その際、意見書に開国論を展開、徳川斉昭と対立。1858年に異例の出世で大老職就任すると、勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、尊攘派の反感を買った。将軍継嗣問題で南紀派の中心となり徳川慶福(家茂)を推薦した。水戸藩への密勅がきっかけとなった安政の大獄で志士らを弾圧し、1860年桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に暗殺された。 |
年(和暦) | ||
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 10才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 13才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 14才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 15才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 22才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 24才 |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 | 38才 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 | 40才 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 43才 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 45才 |
・緒方 洪庵 | 1810年〜1863年 (文化7年〜文久3年) | +5 |
・ Hepburn J. | 1815年〜1911年 (文化12年〜明治44年) | 0 |
・河竹 黙阿弥 | 1816年〜1893年 (文化13年〜明治26年) | -1 |
・安藤 信正 | 1819年〜1871年 (文政2年〜明治4年) | -4 |
・阿部 正弘 | 1819年〜1857年 (文政2年〜安政4年) | -4 |
井伊直弼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/17 05:09 UTC 版)
井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第16代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として[1]日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した[2]。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。
注釈
- ^ 300俵は彦根藩では中級藩士以下の禄高のため、従来の説(吉田常吉『井伊直弼』など)では貧しく慎ましい暮らしをしていたとされていたが、近年の研究で屋敷の維持管理費、薪炭、付け人の俸禄などの費用は藩の公金から別途支出されており、経済的にはある程度の余裕があったことがわかっている[5]
- ^ 直亮は嘉永3年(1850年)10月1日に彦根で病死している。
- ^ 当時の彦根藩の財政は文政期以降の度重なる倹約令や相模湾警備の負担などにより逼迫していたことや、町方・郷方へ下賜された金額が3,000両であることから、実際に下賜された総額については疑問も呈されている[10]。
- ^ (彦根)井伊直弼、(会津)松平容保、(高松)松平頼胤、(姫路)酒井忠顕、(伊予松山)松平勝成、(忍)松平忠国、(桑名)松平定猷、(佐倉)堀田正睦、(小浜)酒井忠義。
- ^ 薬師寺は紀州藩附家老・水野忠央の姻戚であり、この後に異例の出世を遂げていることから、この情報は南紀派の工作の一環との説がある[22]。
- ^ この時、井伊家の先例に倣って就任を形式的に2度辞退している[23]。
- ^ 実際には、英仏両国艦の清国出発は1ヶ月以上後を予定しており、再度朝意を伺うのに十分な期間があったことになる。事実、ハリスは未だ在香港中の英仏両国国使に手紙を出して、両国使の訪日に先立って米国が日本との条約に漕ぎつけたことを自慢している。[27]
- ^ 斉昭らと同日に登城しているが、こちらは規則に則った例日登城である[33]。
- ^ (高松)松平頼胤、(守山)松平頼誠、(常陸府中)松平頼縄。
- ^ 徳川斉昭の九男。
- ^ 直弼は「人は各々天命があり、刺客が果して余を斃そうとすれば、たとえいかほど戒心しても乗ずべき隙があり、そもそも従士の数は幕府の定めるところで大老がこれを破れば他の諸侯に示しがつかない」と述べた[49]。
- ^ 井伊家の従士・萩原吉次郎の証言によると、井伊家では安政6年(1859年)までは主君の身を守るために警護を密かに増やしていたが、直弼がこれを知って安政7年(1860年)に廃したという[49]。
- ^ 狙撃者については、関鉄之介、森五六郎、黒沢忠三郎の諸説がある[50]。
- ^ 直弼の遺骸を検死した彦根藩医・岡島玄達が太股から腰に貫ける貫通銃創を報告している[51]。
- ^ 文政12年(1828年)まで、直弼の叔父・乗徳扁勝(井伊直在)が6世住職を務めていた[61]
- ^ この言葉につながる意味内容は利休七哲の山上宗二が著した『山上宗二記』にある。四字熟語「一期一会」を直弼以前に使ったことは確認できない。
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、22-23頁。ISBN 978-4-09-626607-6。
- ^ 吉田 1984, p. 27.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 77頁。
- ^ 母利 2006, pp. 15–17.
- ^ 吉田 1984, p. 97-101.
- ^ 母利 2006, p. 118.
- ^ 母利 2006, p. 125-126.
- ^ 母利 2006, p. 126-127.
- ^ a b 母利 2006, pp. 127–128.
- ^ 母利 2006, p. 128.
- ^ 母利 2006, p. 129.
- ^ 母利 2006, p. 133.
- ^ 母利 2006, p. 135.
- ^ 母利 2006, p. 146-147.
- ^ 母利 2006, p. 149.
- ^ 吉田 1984, p. 202.
- ^ 吉田 1984, p. 208.
- ^ 吉田 1984, p. 211.
- ^ 母利 2006, p. 180-182.
- ^ a b 『公用方秘録』
- ^ 母利 2006, p. 186.
- ^ 母利 2006, p. 189.
- ^ 母利 2006, p. 190.
- ^ a b 吉田 1984, p. 268.
- ^ 吉田 1984, p. 265-266.
- ^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 井伊直弼』p.252-253
- ^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 井伊直弼』p.253
- ^ 吉田 1984, p. 268-269.
- ^ 『公用方秘録』
- ^ 母利 2006, p. 198-200.
- ^ 母利 2006, p. 201-202.
- ^ 吉田 1984, p. 275.
- ^ 吉田 1984, p. 283-284.
- ^ 吉田 1984, p. 298-303.
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- ^ 吉田 1984, p. 342-343.
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- ^ “国宝・彦根城築城140年祭記念狂言”. 国宝・彦根城築城410年祭推進委員会事務局 (2017年). 2017年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月28日閲覧。
- ^ “和歌で知る井伊直弼 滋賀のグループが解読”. 東京新聞 (2019年2月22日). 2019年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月22日閲覧。
- ^ 母利 2006, p. 73, 83.
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- ^ a b 吉田 1984, p. 104.
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- ^ 井伊直弼と開国150年祭『直弼二十二景~井伊直弼にまつわる22の風景~ 第二十二景 彦根城天主』(2010年4月6日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
- ^ 『昔夢会筆記』p.5
- ^ a b 石井 1988, p. 343.
- ^ 石井 1988, pp. 345–346.
- ^ 石井 1988, p. 347.
- ^ “都市交流”. 水戸市 (2019年8月19日). 2021年11月4日閲覧。
- ^ せたがやの文化財 井伊直弼画像
- ^ “井伊直弼銅像”. 世田谷区ホームページ. 2019年11月12日閲覧。
井伊直弼(いい なおすけ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:13 UTC 版)
「SIDOOH/士道」の記事における「井伊直弼(いい なおすけ)」の解説
江戸幕府の大老。彦根藩主。1853(嘉永6)年の日本は黒船の来航に開国か鎖国か大きく揺るいでいた。井伊直弼は1858(安政5)年にアメリカの要求に屈し幕府の独断により開国を決断した。これに対し孝明天皇と幕政改革派で尊皇攘夷を掲げる一橋派は大激怒した。南紀派の井伊直弼は自らの政敵に対し史上空前の大弾圧を行った(安政の大獄)。1860(安政7)年幕府に反逆の牙を向いた攘夷派は幕府最高権力者の大老井伊直弼暗殺を計画した。同年3月3日水戸勤皇浪士によって雪が舞う中、江戸城の桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。この歴史的テロ行為を機に日本は幕末動乱の時代に突入した。
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井伊直弼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 09:20 UTC 版)
竜水と対立する大老。竜水の命をたびたび狙うも毎回失敗し、刺客の死体を送り返されている。
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井伊直弼(いい なおすけ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:35 UTC 版)
「AZUMI (漫画)」の記事における「井伊直弼(いい なおすけ)」の解説
江戸幕府大老。作中でのあずみの最初の標的。大量弾圧を行う強権的独裁者であることを三井に警戒され、あずみが暗殺に差し向けられた。三井が事前に掴んでいた桜田門外での水戸脱藩浪士たちの襲撃に合わせて、あずみが斬り込み、駕籠の周りの護衛らをすべて斬り伏せて井伊の駕籠を開けて伊井の喉笛を一突にして殺害し駕籠を閉じて撤収していった。その後有村次左衛門が駕籠を刺し、すでに死んでいた井伊の体を引きずり出して首をとった。
※この「井伊直弼(いい なおすけ)」の解説は、「AZUMI (漫画)」の解説の一部です。
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井伊直弼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 22:30 UTC 版)
西洋嫌いで保守的な彦根藩主。大老就任後は開国路線に転じたが陰で私腹を肥やしている。
※この「井伊直弼」の解説は、「陽だまりの樹」の解説の一部です。
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