井伊 直弼とは?

井伊直弼

読み方:いいなおすけ

江戸時代末期大名1850年彦根藩十五代藩主となると藩政改革を行って名君と称された。黒船来航後は幕府における開国派主要人物となり、1858年大老就任すると、孝明天皇勅許を得ずに日米修好通商条約調印した。このことで対立する一橋派尊皇攘夷派反発を買うと、それら反対勢力に対して弾圧を行った(安政の大獄)。強権政治を行ったことが水戸藩士の恨みを買い、1860年桜田門外の変暗殺された。

いいなおすけ ゐいなほすけ 【井伊直弼】 ○

1815~1860江戸末期大老近江彦根藩主。将軍継嗣(けいし)問題水戸派と対抗,一四代将軍に紀州家慶福(よしとみ)(家茂)をつけ,また,1858年勅許を待たず安政五か国条約調印。これに反対する勢力弾圧して安政の大獄起こし60年桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

井伊直弼

読み方いい なおすけ

幕末大老彦根藩主。幼名之介、のち三郎、字は応卿、号に无根水埋木舎王舎・雲竜・?疲;露軒等。安政5年(1858)大老就任し、一橋徳川慶喜擁立派を押さえ十四代将軍を徳川慶福(家茂)に定めた。また米国総領事ハリスとの間に日米修好通商条約締結、これに反対する大名公卿志士らを弾圧する安政の大獄断行。禅・国学和歌など諸学芸通じ茶人としても知られる。万延元年(1860)桜田門外の変において歿、46才。

井伊 直弼 (いい なおすけ)

1815〜1860 (文化12年万延元年)
大老雪の桜門外に散った、開国論幕府大老
幕末大老彦根藩主。1853年ペリー浦賀来航際し彦根藩として相洲警備重責を果たした。その際意見書開国論を展開、徳川斉昭対立1858年異例出世大老就任すると、勅許を待たずに日米修好通商条約調印し、尊攘派反感を買った。将軍継嗣問題南紀派中心となり徳川慶福(家茂)を推薦した。水戸藩への密勅きっかけとなった安政の大獄志士らを弾圧し、1860年桜田門外の変水戸・薩摩浪士暗殺された。

 年(和暦)
1825年 (文政8年) 異国船打払令 10
1828年 (文政11年) シーボルト事件 13
1829年 (文政12年) 江戸大火 14才
1830年 (天保元年) 伊勢御蔭参り大流行 15才
1837年 (天保8年) 大塩平八郎の乱 22才
1839年 (天保10年) 蛮社の獄 24
1853年 (嘉永6年) 黒船来航 38
1855年 (安政2年) 安政江戸地震 40
1858年 (安政5年) 安政の大獄 43
1860年 (万延元年) 桜田門外の変 45


 人物
緒方 洪庵 1810年1863年 (文化7年文久3年) +5
Hepburn J. 1815年1911年 (文化12年明治44年) 0
河竹 黙阿弥 1816年1893年 (文化13年明治26年) -1
安藤 信正 1819年1871年 (文政2年明治4年) -4
阿部 正弘 1819年1857年 (文政2年安政4年) -4

井伊直弼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 03:10 UTC 版)

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末譜代大名近江彦根藩の第15代藩主[注釈 1]。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した[2]。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。




注釈

  1. ^ 16代藩主、13代当主という数え方もある[1]
  2. ^ 14代藩主、11代当主という数え方もある[1]
  3. ^ 300俵は彦根藩では中級藩士以下の禄高のため、従来の説(吉田常吉『井伊直弼』など)では貧しく慎ましい暮らしをしていたとされていたが、近年の研究で屋敷の維持管理費、薪炭、付け人の俸禄などの費用は藩の公金から別途支出されており、経済的にはある程度の余裕があったことがわかっている[4]
  4. ^ 15代藩主、12代当主という数え方もある[1]
  5. ^ 直亮は嘉永3年(1850年)10月1日に彦根で病死している。
  6. ^ 当時の彦根藩の財政は文政期以降の度重なる倹約令や相模湾警備の負担などにより逼迫していたことや、町方・郷方へ下賜された金額が3,000両であることから、実際に下賜された総額については疑問も呈されている[9]
  7. ^ (彦根)井伊直弼、(会津)松平容保、(高松)松平頼胤、(姫路)酒井忠顕、(伊予松山)松平勝成、(忍)松平忠国、(桑名)松平定猷、(佐倉)堀田正睦、(小浜)酒井忠義
  8. ^ 薬師寺は紀州藩附家老・水野忠央の姻戚であり、この後に異例の出世を遂げていることから、この情報は南紀派の工作の一環との説がある[21]
  9. ^ この時、井伊家の先例に倣って就任を形式的に2度辞退している[22]
  10. ^ 斉昭らと同日に登城しているが、こちらは規則に則った例日登城である[30]
  11. ^ (高松)松平頼胤、(森山)松平頼誠、(常陸府中)松平頼縄
  12. ^ 徳川斉昭の九男。
  13. ^ 直弼は「人は各々天命があり、刺客が果して余を斃そうとすれば、たとえいかほど戒心しても乗ずべき隙があり、そもそも従士の数は幕府の定めるところで大老がこれを破れば他の諸侯に示しがつかない」と述べた[46]
  14. ^ 井伊家の従士・萩原吉次郎の証言によると、井伊家では安政6年(1859年)までは主君の身を守るために警護を密かに増やしていたが、直弼がこれを知って安政7年(1860年)に廃したという[46]
  15. ^ 狙撃者については、関鉄之介、森五六郎、黒沢忠三郎の諸説がある[47]
  16. ^ 直弼の遺骸を検死した彦根藩医・岡島玄達が太股から腰に貫ける貫通銃創を報告している[48]
  17. ^ 文政12年(1828年)まで、直弼の叔父・乗徳扁勝(井伊直在)が6世住職を務めていた[58]
  18. ^ この言葉につながる意味内容は利休七哲山上宗二が著した『山上宗二記』にある。四字熟語「一期一会」を直弼以前に使ったことは確認できない。

出典

  1. ^ a b c 彦根藩#歴代藩主を参照
  2. ^ 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、22-23頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  3. ^ 吉田 1984, p. 27.
  4. ^ 母利 2006, pp. 15 - 17.
  5. ^ 吉田 1984, p. 97-101.
  6. ^ 母利 2006, p. 118.
  7. ^ 母利 2006, p. 125-126.
  8. ^ 母利 2006, p. 126-127.
  9. ^ a b 母利 2006, pp. 127-128.
  10. ^ 母利 2006, p. 128.
  11. ^ 母利 2006, p. 129.
  12. ^ 母利 2006, p. 133.
  13. ^ 母利 2006, p. 135.
  14. ^ 母利 2006, p. 146-147.
  15. ^ 母利 2006, p. 149.
  16. ^ 吉田 1984, p. 202.
  17. ^ 吉田 1984, p. 208.
  18. ^ 吉田 1984, p. 211.
  19. ^ 母利 2006, p. 180-182.
  20. ^ a b 『公用方秘録』
  21. ^ 母利 2006, p. 186.
  22. ^ 母利 2006, p. 189.
  23. ^ 母利 2006, p. 190.
  24. ^ a b 吉田 1984, p. 268.
  25. ^ 吉田 1984, p. 265-266.
  26. ^ 吉田 1984, p. 268-269.
  27. ^ 『公用方秘録』
  28. ^ 母利 2006, p. 198-200.
  29. ^ 母利 2006, p. 201-202.
  30. ^ 吉田 1984, p. 275.
  31. ^ 吉田 1984, p. 283-284.
  32. ^ 吉田 1984, p. 298-303.
  33. ^ 吉田 1984, p. 317-318.
  34. ^ 吉田 1984, p. 316-324.
  35. ^ 吉田 1984, p. 333.
  36. ^ 吉田 1984, p. 343-344.
  37. ^ 吉田 1984, p. 342-343.
  38. ^ 吉田 1984, p. 354-355.
  39. ^ 吉田 1984, p. 370.
  40. ^ 吉田 1984, p. 355-357.
  41. ^ 吉田 1984, p. 357-359.
  42. ^ 吉田 1984, p. 360.
  43. ^ 吉田 1984, p. 366-369.
  44. ^ 吉田 1984, p. 380.
  45. ^ 吉田 1984, p. 381.
  46. ^ a b 吉田 1984, p. 385.
  47. ^ 吉田 1984, pp. 393-394.
  48. ^ 吉田 1984, p. 394.
  49. ^ 吉田 1984, p. 386.
  50. ^ 吉田 1984, p. 387.
  51. ^ a b 吉田 1984, p. 392.
  52. ^ a b 吉田 1984, p. 398.
  53. ^ a b 吉田 1984, p. 399.
  54. ^ 吉田 1984, p. 398-399.
  55. ^ 吉田 1984, p. 400.
  56. ^ 佐野市仏教会 天應寺” (日本語). 佐野市仏教会. 2019年12月27日閲覧。
  57. ^ 母利 2006, p. 20.
  58. ^ 母利 2006, p. 37.
  59. ^ 母利 2006, p. 39.
  60. ^ a b 母利 2006, p. 40.
  61. ^ 母利 2006, p. 22-23.
  62. ^ 母利 2006, p. 58-61.
  63. ^ 国宝・彦根城築城140年祭記念狂言”. 国宝・彦根城築城410年祭推進委員会事務局 (2017年). 2017年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月28日閲覧。
  64. ^ 和歌で知る井伊直弼 滋賀のグループが解読”. 東京新聞 (2019年2月22日). 2019年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月22日閲覧。
  65. ^ 母利 2006, p. 73, 83.
  66. ^ 母利 2006, p. 73-74.
  67. ^ 母利 2006, p. 83.
  68. ^ 母利 2006, p. 84.
  69. ^ a b 吉田 1984, p. 104.
  70. ^ a b 吉田 1984, p. 102.
  71. ^ 吉田 1984, p. 244.
  72. ^ 井伊直弼と開国150年祭『直弼二十二景~井伊直弼にまつわる22の風景~ 第二十二景 彦根城天主』、WARP-国立国会図書館インターネット資料収集保存事業
  73. ^ 『昔夢会筆記』p.5
  74. ^ a b 石井 1988, p. 343.
  75. ^ 石井 1988, pp. 345-346.
  76. ^ 石井 1988, p. 347.
  77. ^ せたがやの文化財 井伊直弼画像
  78. ^ 井伊直弼銅像” (日本語). 世田谷区ホームページ. 2019年11月12日閲覧。


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