松平頼誠
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 享和3年1月24日(1803年2月15日) |
死没 | 文久2年8月13日(1862年9月6日) |
官位 | 従四位下大学頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂 |
藩 | 陸奥守山藩主 |
氏族 | 水戸徳川家支流守山松平家 |
父母 | 父:松平頼慎、母:徳川治保次女・雅姫 |
兄弟 | 高、久米、熈、頼誠、頼賢、勝姫、英、綿、頼永 養兄弟:中山信情正室 |
妻 | 正室:松平頼説娘・信 継室:徳川治紀六女・苞姫 |
子 | 頼茂、頼音、頼升、頼彬、頼邑 |
松平 頼誠(まつだいら よりのぶ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国守山藩5代藩主。水戸支流頼元系松平家6代。官位は従四位下・大学頭。
略歴
守山藩4代藩主・松平頼慎の長男として誕生。
天保元年(1830年)、父の死により家督を相続した。藩財政の悪化により、豪農・豪商から4500両の借入を行った結果、更に財政が逼迫し、農民からの収奪が強まった。それに対する減免要求や、助郷反対、不正をした村役人の解任要求など、頼誠の在任中は領民による騒動が頻発した[1]。文久2年(1862年)死去し、三男・頼升が跡を継いだ。
系譜
- 父:松平頼慎
- 母:雅姫 - 徳川治保の次女
- 正室:信 - 松平頼説の娘
- 三男:松平頼升(1832-1872)
- 継室:苞姫 - 厚姫、徳川治紀の六女
- 生母不明の子女
- 長男:松平頼茂
- 次男:松平頼音
- 四男:松平頼彬
- 五男:松平頼邑
脚注
- ^ 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年
固有名詞の分類
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