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井伊直元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 07:50 UTC 版)

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井伊直元
井伊直元
時代 江戸時代後期
生誕 文化6年4月16日1809年5月29日
死没 弘化3年1月13日1846年2月8日
改名 徳之助(幼名)、直元
別名 中務(通称)
戒名 良性院殿真相元諦大居士
墓所 東京都世田谷区豪徳寺
官位 従四位下侍従玄蕃頭掃部頭左近衛権少将
近江彦根藩世嗣
氏族 井伊氏(掃部頭家)
父母 父:井伊直中、母:君田富
養父:井伊直亮
兄弟 直清穠姫直亮、鋭三郎、亀五郎、知、中顕、充、秩、中川久教内藤政成、芳、松平勝権新野親良直元横地義之内藤政優直弼内藤政義
正室:井伊直致の娘・
側室:大岡宜周の娘
[1]
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井伊 直元(いい なおもと)は、江戸時代後期の近江国彦根藩の世嗣。官位従四位下侍従玄蕃頭掃部頭左近衛権少将

生涯

文化6年(1809年)4月16日[2][3]、13代藩主・井伊直中の十一男として誕生。生母は側室のお富[3]

文政8年(1825年4月4日5月21日)に実子が無かった長兄で14代藩主・井伊直亮の養子となり[2][4]、文化8年12月16日1812年1月23日)に従四位下・侍従に叙任されて玄蕃頭と称した[4]天保4年(1833年12月21日1834年1月30日)には左近衛権少将となる[4]

しかし家督相続前の弘化3年(1846年)1月13日に江戸で病死した[5][4][6]。享年38。

代わって、井伊家に残留していた同母弟・直弼が養嗣子となり[7][6]、直亮の死後に彦根藩15代藩主となる。

脚注

  1. ^ 直元の娘で生母は大岡氏。戒名は俊操院殿知徳貞観大姉。天保9年4月3日1838年4月26日)出生するも4ヵ月後の8月21日10月9日)に早世。
  2. ^ a b 吉田 1963, p. 408.
  3. ^ a b 母利 2006, p. 13.
  4. ^ a b c d 吉田 1963, p. 409.
  5. ^ 吉田 1963, p. 78.
  6. ^ a b 母利 2006, p. 71.
  7. ^ 吉田 1963, p. 79.

参考文献

  • 吉田常吉 『井伊直弼』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1963年。 
  • 母利美和 『井伊直弼』 吉川弘文館〈幕末維新の個性〉、2006年。 



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