あんどう‐のぶまさ【安藤信正】
安藤 信正 (あんどう のぶまさ)
1819〜1871 (文政2年〜明治4年) |
【老中】 井伊直弼暗殺の後、困難な幕政・外交問題を支えた。 |
幕末の老中。磐城平藩主。対馬守。1860年桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、老中として幕政を主導。公武合体を押し進め、和宮降嫁を実現した。さらに日普修好通商条約締結や米公使館のヒュースケン通訳暗殺問題の賠償金問題決着など、外交面でもすぐれた手腕を示した。1862年、攘夷派の水戸藩士に坂下門外で襲撃されて負傷し、老中を辞職。戊辰戦争で新政府軍に抗戦して敗北、処罰を受けた。 |
年(和暦) |
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●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 6才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 9才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 10才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 11才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 18才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 20才 |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 | 34才 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 | 36才 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 | 39才 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 | 41才 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 | 43才 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 | 44才 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 | 48才 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い | 49才 |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 | 50才 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 | 52才 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 | 52才 |
・井伊 直弼 | 1815年〜1860年 (文化12年〜万延元年) | +4 |
・ Hepburn J. | 1815年〜1911年 (文化12年〜明治44年) | +4 |
・河竹 黙阿弥 | 1816年〜1893年 (文化13年〜明治26年) | +3 |
・阿部 正弘 | 1819年〜1857年 (文政2年〜安政4年) | 0 |
・勝 海舟 | 1823年〜1899年 (文政6年〜明治32年) | -4 |
・Boissonade G. E. | 1825年〜1910年 (文政8年〜明治43年) | -6 |
安藤信正
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![]() 安藤信正 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政2年11月25日(1820年1月10日) |
死没 | 明治4年10月8日(1871年11月20日) |
改名 | 欽之進、欽之介、信睦[1]、信行[1]、信正[1] |
別名 | 鶴翁、欽斎、晩翠(号) |
戒名 | 謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士 |
墓所 | 福島県いわき市の良善寺 |
官位 | 従五位下・伊勢守、長門守、対馬守[1]、従四位下、侍従 |
幕府 | 江戸幕府雁間詰、奏者番、寺社奉行、若年寄、老中、勝手掛老中、溜間詰 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂 |
藩 | 陸奥国磐城平藩主 |
氏族 | 安藤氏 |
父母 | 父:安藤信由、母:松平信明娘・従 |
兄弟 | 信正、板倉勝成、正子、力子 |
妻 | 松平宗発娘・苞 |
子 | 信民、信守、鈺子、内藤正誠正室 |
安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国磐城平藩5代藩主。官位は従四位下・侍従、長門守、対馬守。対馬守系安藤家10代。幕末に若年寄、次いで老中を務めた[1]。
生涯
家督相続
文政2年11月25日(1820年)、磐城平藩4代藩主・安藤信由の嫡男として磐城平藩江戸藩邸にて誕生[2]。母は大河内松平信明の娘。幼名は欽之進、後に欽之介。元服時の初名は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行(のぶゆき)、さらに信正へ改名している[1]。
天保6年(1835年)3月15日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。同年12月16日、従五位下・伊勢守に叙任する。後に長門守、対馬守と改める。
弘化4年(1847年)8月2日、父の死により家督を継ぐ。弘化5年(1848年)1月23日、奏者番に就任する。
老中在任期
安政5年(1858年)8月2日、寺社奉行加役を経て、大老・井伊直弼の下で若年寄となる。安政7年(1860年)には老中となるが、直後の桜田門外の変で直弼が暗殺される。信正は紆余曲折を経て事態を収拾した後、直弼に罷免されていた久世広周を老中に再任させ、以後この2人が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった(久世・安藤政権)。
信正は安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えた(公武合体)。文久2年(1862年)には、直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させている。信正の公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の14代将軍・徳川家茂への降嫁の実現であった。長州藩士・長井雅楽の航海遠略策を承認したのも公武合体の一環であった。
また、この頃になると日本国内では攘夷論の高揚など政情不安からアメリカ公使館通訳ヘンリー・ヒュースケン殺害事件などの問題が起こっていたが、当時はアメリカが南北戦争で日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれを処理することに成功した。また、諸外国と条約を結んだことから問題となっていた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めた。
坂下門外の変
文久2年(1862年)1月15日、和宮降嫁問題によって反幕感情を抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、背中に負傷したが一命は取り止めた(坂下門外の変)。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見している。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したという。
しかし、幕閣の一部から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けぬ」と非難の声が上がる。その上、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれる。町奉行与力の佐久間長敬は、安藤が自宅に町芸者を招いてオールコックに不埒な真似をさせたのは憤激に堪えない、浪人でなくても怒るのは当たり前だとしていた[3]。4月11日に老中を罷免され、溜間詰格への敬遠を余儀なくされた(6月2日に久世も罷免され、長井も藩論が攘夷論に転換して失脚した)。その後、隠居・謹慎を命じられ、所領のうち2万石を減封された[4]。跡を長男の信民に継がせたが、ほどなく翌文久3年(1863年)8月10日に死去したため、甥の信勇を藩主とした。
明治維新期
大政奉還を経て慶応4年(1868年)に明治政府が発足すると、若年の信勇に代わって、本領で藩政を指揮した。 上坂昇の曾祖父にあたる上坂助太夫は城代となり、新政府に恭順する現藩主信勇の意に反し総監として抵抗したが、居城の磐城平城は落城、信正は降伏、謹慎を余儀なくされた。その後、明治2年(1869年)9月10日に永蟄居の処分が解かれた。
明治4年(1871年)10月8日に死去した。享年52(満51歳没)。法名は、謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士。墓所は、福島県いわき市平古鍛冶町の川嶋山楢騎士院良善寺。
なお、翌明治5年(1872年)に信勇は隠居し、信正の遺児(信民の死後に生まれた)信守に家督を譲っている。
官歴
※日付=旧暦
- 文政2年(1819年)12月28日 - 元服し、信睦と名乗る。
- 天保6年(1835年)12月16日 - 従五位下・伊勢守に叙任。
- 天保14年(1843年)閏9月12日 - 長門守に遷任(閏9月11日、老中に阿部伊勢守正弘が就任したため、遷任)。
- 弘化4年(1847年)
- 弘化5年(1848年)1月23日 - 奏者番に補任。
- 嘉永4年(1851年)
- 安政3年(1856年)12月1日 - 対馬守に遷任。
- 安政5年(1858年)8月1日 - 若年寄。
- 安政6年(1859年)
- 安政7年(1860年)
- 万延元年(1860年)
- 文久元年(1861年)3月21日 - 外国御用取扱の功により1万石加増。
- 文久2年(1862年)
- 慶応4年/明治元年(1868年)
- 明治2年(1869年)9月10日 - 永蟄居免ずる。
系譜
父母
正室
- 苞 - 松平宗発の娘
子女
脚注
参考文献
登場作品
- テレビドラマ
- 小説
- 漫画
関連項目
「安藤 信正」の例文・使い方・用例・文例
- 安藤先生はみんなに評判がよい。
- 1995年、安藤氏は建築におけるもっとも権威ある賞を受賞した。
- 彼らは安藤氏から至れり尽くせりのもてなしを受けた.
- 17歳の安藤美(み)姫(き)選手は6位だった。
- 愛知県出身の高校生スケーターの安藤美(み)姫(き)選手はいくつかのジャンプで失敗し,4位に終わった。
- 安藤選手は3選手の中で最も多くのポイントを獲得した。
- 安藤選手は体調を整え,ジャンプの安定感や自信を取り戻すことが必要だ。
- 村主選手と荒川選手はともに世界選手権でメダルを獲得しており,安藤選手は公式大会で4回転サルコーを跳んだ最初の女子選手だ。
- 理想の女性上司では,久(ひさ)本(もと)雅(まさ)美(み)さんが3位,ニュースキャスターの安藤優(ゆう)子(こ)さんが4位だった。
- 安藤選手,フィギュアスケートのGPシリーズで初優勝
- 女子の種目では,安藤美(み)姫(き)選手がGPシリーズ初優勝を果たした。
- 安藤選手はショートプログラム後には2位だった。
- 安藤選手は,2月のトリノ冬季五輪で15位に終わった後,見事に返り咲いた。
- 選挙は,安藤忠(ただ)恕(ひろ)前知事が政治スキャンダルをめぐって先月辞職したために行われた。
- 恩田選手は,3月の世界フィギュアスケート選手権で1位入賞の安藤美(み)姫(き)選手や2位入賞の浅田真(ま)央(お)選手と出身地が同じだ。
- 安藤美(み)姫(き)選手はショートプログラムの後2位だったが,フリーではジャンプで数回転倒し,総合4位に終わった。
- 安藤美(み)姫(き)選手はショートプログラム終了後2位だったが,フリーでは135.50点を獲得し,首位に立った。
- 浅田選手,安藤選手と中野選手は3月にスウェーデンのヨーテボリで開催される世界フィギュアスケート選手権に出場する予定だ。
- 昨年の世界選手権で優勝した安藤選手は「2連覇については考えていない。ただ普段通り演じたい。」と語った。
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