ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア軍艦対馬占領事件(1861年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:53 UTC 版)
「幕末の砲艦外交」の記事における「ロシア軍艦対馬占領事件(1861年)」の解説
詳細は「ロシア軍艦対馬占領事件」を参照 ロシア艦隊の太平洋司令官であったリハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶した。しかし、海事省大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりニコライ・ビリリョフが艦長を努める、蒸気コルベットポサードニクが派遣された。ビリリョフは1861年4月25日(文久元年3月16日)に対馬に到着、藩主への面会を再三要求し、5月2日(3月23日)には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送ったが、有効な手は打てなかった。幕府は外国奉行・小栗忠順を対馬に急派して事態の収拾に当たらせたが、解決方法に関して幕閣と対立し、小栗は解任された。英国公使ラザフォード・オールコックは香港でこの事件を知り、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議し、軍艦2隻(アクテオン(英語版)、リンドーブ)を対馬に派遣して偵察を行わせた。1861年8月14日(文久元年7月9日)、オールコックとホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、幕府はこれを受け入れた(その代償として、オールコックは伊能図の提供を求めている)。8月28日(7月23日)、イギリス東インド艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープはロシア側に対して厳重抗議した。ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチはイギリスの干渉を見て形勢不利と察し、ビリリョフを説得。9月19日(8月15日)、ポサードニクは対馬から退去した。 艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲ロシア ポサードニク 蒸気スクリューコルベット 1857年 基準排水量885トン 178 400馬力程度 36ポンド砲x11 英国 エンカウンターEncounter 蒸気スクリューコルベット 1846年 積載量953トン(bmトン)排水量1934英トン 225 不明 14 リンドーブRingdove 蒸気スクリュー砲艦 1856年 積載量674トン(bmトン) 不明 不明 4 アクテオン(英語版)Actaeon 帆走測量艦 1831年 積載量630トン(bmトン) 不明 無 16(改装前)
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