初鹿野信興とは? わかりやすく解説

初鹿野信興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 09:46 UTC 版)

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初鹿野信興
時代 江戸時代中期
生誕 寛保5年(1745年
死没 寛政3年12月20日1792年1月13日
別名 又八、伝右衛門
官位 従五位下河内守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 依田氏初鹿野氏
父母 依田政次
初鹿野信彭
兄弟 依田政峯、山本勝明、信興山村良旺室ら
初鹿野信彭娘
長田元鋪娘
信敏英信
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初鹿野 信興(はじかの のぶおき)は、江戸時代中期の旗本江戸北町奉行。又八、伝右衛門。官位従五位下河内守。知行地は武蔵国土呂村など。

略歴

依田政次の三男で、初鹿野信彭の婿養子。後妻は長田元鋪の娘。

明和8年(1771年)に家督を継承、小姓組番士となり、安永8年(1779年)、使番となり布衣を着すことを許された。天明5年(1785年目付となり、天明7年(1787年浦賀奉行となる。天明8年(1788年)9月10日、江戸北町奉行となり、12月16日従五位河内守に叙任された。

寛政2年(1791年)江戸地本錦絵問屋組合(東京地本彫画営業組合の前身)の結成を主導する。寛政3年(1792年)、町奉行在職のさなか48歳で没した。

婿養子・信敏(初鹿野信定三男)は失心して自殺し、養子・英信(初鹿野信照長男・書院番、使番を歴任)が家督を継いだ。

出典


初鹿野信興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 00:09 UTC 版)

だましゑ歌麿」の記事における「初鹿野信興」の解説

北町奉行頑迷融通利かない人物老中改革断行する前から奉行務めている。

※この「初鹿野信興」の解説は、「だましゑ歌麿」の解説の一部です。
「初鹿野信興」を含む「だましゑ歌麿」の記事については、「だましゑ歌麿」の概要を参照ください。

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