棄捐令の法案作成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 15:50 UTC 版)
この法令の作成には、勘定奉行の久世広民・久保田政邦・柳生久通・曲淵景漸・江戸南町奉行の山村良旺・北町奉行の初鹿野信興などの幕閣の他、町人達の下情に通じ町方の動きをよく心得る者として町年寄の樽屋与左衛門も参加した。そして、勘定所御用達からの出資金の後ろ盾を得て、寛政元年(1789年)正月ごろから約半年の月日をかけて作り上げられた。 発布前に幕府が札差の経営状態を調査してみると札差97件のうち完全に自己資金で経営しているものは7件に過ぎず、全体の七割強が他所から資金を調達して経営していたことがわかった。このまま借金の棒引きをすると、札差が多額の金銭的損害を被り経営困難に陥り、恨みを買って旗本への再融資を拒否してしまう。それでは却って融資の道を絶たれた旗本・御家人達が更なる貧窮に陥る事態の繰り返しになってしまうことを松平定信ら幕府方が危惧した。 そこで勘定奉行久世広民は、幕府の公金5万両の貸下げや、札差業の資金貸付機関となる猿屋町会所の設立を定信に提案した。猿屋町会所は江戸・京都・大坂の有力豪商らから資金を募って経営状態の良い有力な札差に会所を運営させて経営困難となった札差に年利一割の低利で貸し付けるというものであった。久世はこの案を、札差は他から資金を借りずに営業を存続でき、長年富豪の元に溜め込まれた金が世に流通することにより経済が活性化するだろうと評している。久世の提案に定信からも「もっともなる評議に存じ候」と賛同の意を受けている。ただし、公金に関しては5万両から3万両へと変更を指示している。会所の構想は、多少の修正を加えながらも実現の運びとなった。 町年寄の樽屋与左衛門がこの仕法改革案の検討に加わるようになったのは同年7月に入ってからである。 樽屋与左衛門は、旧債の処分について、債権を天明4年(1784年)以前と翌5年(1785年)正月以後とに分け、前者を相対済し、後者を年利6パーセントに引下げ、とするように提案している。天明4年末で、札差の債権を二分したのは、当時の公定利子が18パーセントであるから、6年目に利子が元金の額を越えることになり、それ以前の債権はすでに元金分は回収したものと見なし得るからである。 また、この札差仕法改革が札差の旗本金融だけを対象とし、他の一般金融には適用しないことを町触で徹底させ、市中のパニックを最小限に抑えること、以後の貸金年利率を12パーセントに引き下げることなど、与左衛門の献策はこの他にも詳細にわたり、そのほとんどが受け入れられている。最終的に発布内容としては以下の通りとなった。 天明4年以前の(6年以上前の)札差からの借金は、理由のいかんを問わず棄捐する 天明5年4月から寛政元年までの借金を、元金、利子ともに年利6%に下げ、年賦返済とする 寛政元年以後の利子は、年利12%に引き下げる 大多数を占める零細の札差のため、新規融資をしない金主への対策として、幕府出資で貸付会所を新設する 札差が金主から借りていた金について、札差の踏倒しを認め、金主が奉行所に訴えても5年以前のものは受理しない 旗本・御家人への貸付けは今迄通りに実行すること さらに、この時期が最も影響が少なくて済むとして、棄捐令の実施時期は9月の冬服の取替が終わった後となった。発布はそれより20日ほど前の9月10日ごろにすべきだと提案した。発布の日取りは与左衛門の提案通り、9月10日から12日ごろと内定したが、実際には最後の申渡書の加筆訂正で若干遅れることになった。
※この「棄捐令の法案作成」の解説は、「棄捐令」の解説の一部です。
「棄捐令の法案作成」を含む「棄捐令」の記事については、「棄捐令」の概要を参照ください。
- 棄捐令の法案作成のページへのリンク