棄捐令の発布後
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棄捐令から七日後の9月23日、札差28名による嘆願書が提出された。嘆願書には、自分達は零細の営業であり今まで他所から資金を借りて営業してきたが今回の棄損に利安とあっては営業が立ちがたく、もう金は貸せないというのだ。幕府は即対応し、翌日、札差の代表に2万両を下賜し、うち1万両は10年間返さなくてよく、残り1万両は会所での貸出資金とせよと命じた。なお、公儀から札差に2,3万両程融資することは、もとより計画段階から予定されていた。これを受けて札差も嘆願書を引っ込めている。 だが結局、札差の貸し渋りが始まった。棄捐令が発布された当初は、札差から借金をしていた旗本・御家人や徳川御三家・御三卿付きの武士は大いに喜び、松平定信への感謝で湧きかえっていたと水野為長の日記に記されている。しかし、さらなる借金が出来なくなったことで再び生活に困り始めた旗本・御家人たちの不満が、年末が近づき物入りが多くなってくるにしたがって増大し、それに伴い棄捐令に対する不平が募ってきた。中には、追剥や盗人になる下級の御家人まで現れた。 旗本・御家人に対する追加貸付は行われなくなり、人心を不安に陥れるなど多くの弊害をもたらした。札差の一斉締め貸しは申合わせたように続き、中にはほとんど閉店同様の店もあった。定信は久世に宛てて「今までは暮れに20両ほど借り返せていたのに、今年はやっと4,5両、同心などはわずか1両というありさまで、これでは貧乏なものは年が越せず、御仁恵が無駄になってしまう。札差の自己資金が足りなければ会所から借りさせよ。」と送り、年内に解決するよう急かしている。奉行と札差との間の交渉は最終的には棄捐令発布当初、年利12%のうちの2%だった札差の取り分を6%と上乗せすることで札差は矛を収めた。これは公儀からの金を右から左に武家に仲介するだけで利息の半分を得ることができ札差としても利が多かった。年越し前の12月26日という瀬戸際の妥結によって、当初の予定から三ヵ月遅れたが会所の資金が札差経由で武家に渡るようになり年越しができないと危惧された大規模な貸し渋りの事態は回避された。 その後も札差への経済支援は続き、翌年7月には「四分通御下げ金」と名付けられた武家に貸した額の4割を会所から低利で貸し出す措置が決まった。この時、会所の基金は前年10月に元手3万3000両だったものが、札差たちに貸し付けた分だけで5万5000両余と順調に膨らんでいた。以後、武家への貸し渋りは起きていない。
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