棄捐令の発布後とは? わかりやすく解説

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棄捐令の発布後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 15:50 UTC 版)

棄捐令」の記事における「棄捐令の発布後」の解説

棄捐令から七日後の9月23日札差28名による嘆願書提出された。嘆願書には、自分達は零細営業であり今まで他所から資金借りて営業してきたが今回棄損に利安とあって営業が立ちがたく、もう金は貸せないというのだ。幕府は即対応し翌日札差の代表に2万両を下賜し、うち1万両は10年間返さなくてよく、残り1万両は会所での貸出資金とせよと命じた。なお、公儀から札差2,3万両融資することは、もとより計画段階から予定されていた。これを受けて札差嘆願書引っ込めている。 だが結局札差貸し渋り始まった棄捐令発布され当初は、札差から借金をしていた旗本御家人徳川御三家御三卿付き武士大い喜び松平定信への感謝湧きかえっていたと水野為長日記記されている。しかし、さらなる借金出来なくなったことで再び生活に困り始めた旗本御家人たちの不満が、年末近づき物入り多くなってくるにしたがって増大しそれに伴い棄捐令対す不平募ってきた。中には追剥盗人になる下級御家人まで現れた。 旗本御家人対す追加貸付行われなくなり人心不安に陥れるなど多く弊害もたらした札差一斉締め貸し申合わせたように続き中にはほとんど閉店同様の店もあった。定信久世宛てて今まで暮れ20両ほど借り返せていたのに、今年はやっと4,5両、同心などはわずか1両というありさまで、これでは貧乏なものは年が越せず、御仁恵が無駄になってしまう。札差自己資金足りなければ会所から借りさせよ。」と送り年内解決するよう急かしている。奉行札差との間の交渉最終的に棄捐令発布当初年利12%のうちの2%だった札差取り分を6%と上乗せすることで札差は矛を収めた。これは公儀からの金を右から左武家仲介するだけで利息半分を得ることができ札差としても利が多かった年越し前12月26日という瀬戸際妥結によって、当初の予定から三ヵ月遅れた会所資金札差経由武家に渡るようになり年越しできない危惧され大規模な貸し渋り事態回避された。 その後札差への経済支援続き翌年7月には「四分通御下げ金」と名付けられ武家貸した額の4割を会所から低利貸し出す措置決まった。この時、会所基金前年10月元手33000両だったものが、札差たちに貸し付けた分だけで5万5000両余と順調に膨らんでいた。以後武家への貸し渋り起きていない。

※この「棄捐令の発布後」の解説は、「棄捐令」の解説の一部です。
「棄捐令の発布後」を含む「棄捐令」の記事については、「棄捐令」の概要を参照ください。

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