棄教後とは? わかりやすく解説

棄教後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:52 UTC 版)

千々石ミゲル」の記事における「棄教後」の解説

1601年キリスト教棄教宣言しイエズス会から除名処分を受ける。棄教同時に洗礼名捨てて千々石清左衛門と名を改め伯父の後を継いだ従兄弟大村喜前大村藩立藩すると藩士として召し出される。大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地与えられるミゲル棄教検討していた大村喜前の前で公然と日本におけるキリスト教布教異国侵入目的したものである」と述べ主君棄教後押ししている。また藩士としても大村領内での布教求めたドミニコ会提案却下し、さらに領民に「修道士イベリア半島では尊敬されていない」と伝道信じないように諭したという。イエズス会日本管区区長推挙され原マルティノマカオ派遣され伊東マンショ中浦ジュリアンらが教会への忠誠続ける中、共に欧州キリスト教本山見聞きして来たミゲル反キリスト転じたことは宣教師達の威信を失わせた。 こうした出来事は、後に日蓮宗への改宗迫った加藤清正並んで大村喜前棄教キリシタン弾圧後押しとなったとする論もある[要出典]。ところが、喜前が治め大村藩内はバテレン追放令後も布教が盛んであったため、この方針はキリシタン派の反発招き大敵は喜前、その根源清左衛門ミゲル)」とされた。喜前はミゲル藩政から遠ざけさせただけでなく、この騒動鎮静化を図るために見せしめ的に処罰した。さらに島原日野江藩身を寄せるも、本家筋として肥前有馬氏継いでいたもう一人従兄弟で、やはりキリシタン大名であった有馬晴信遺臣瀕死の重傷を負わされる暗殺未遂起きるなど、親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われ長崎移り住むに至る。晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で子息千々玄蕃による墓所思われる石碑発見されており、領内隠棲したもの考えられる伊木力の伝承では、大村喜前対す恨み弔うため、伊木力から大村藩の方を睨むようにして葬られたという。

※この「棄教後」の解説は、「千々石ミゲル」の解説の一部です。
「棄教後」を含む「千々石ミゲル」の記事については、「千々石ミゲル」の概要を参照ください。

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