伊東マンショとは? わかりやすく解説

いとう‐マンショ【伊東満所】

読み方:いとうまんしょ

[1569ころ〜1612]《マンショ(Mancio)は洗礼名天正遣欧使節正使一人大友宗麟(おおともそうりん)の姪の孫といわれるが確かではない。帰国後、イエズス会入り、のち司祭


いとうマンショ 【伊東マンショ】


伊東マンショ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 05:37 UTC 版)

伊東 マンショ(いとう まんしょ、Mancio、伊東 満所永禄12年〈1569年〉? - 慶長17年10月21日1612年11月13日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会司祭。マンショは洗礼名、本名は伊東 祐益(いとう すけます)。[1]


  1. ^ 伊藤満所(マンショ)”. 西都市観光協会. 2024年3月5日閲覧。
  2. ^ 読売新聞2014年3月17日
  3. ^ 朝日新聞デジタル 2016年5月25日閲覧


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伊東マンショ(いとう マンショ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:18 UTC 版)

サムライ・ラガッツィ -戦国少年西方見聞録-」の記事における「伊東マンショ(いとう マンショ)」の解説

天正遣欧少年使節団主席正使大友宗麟名代育ち良さ表した風貌で、礼儀作法長け使節団一員であることを何よりも誇り思っている。西洋教育受けていない晴信を見下し、また自信過剰な面も見られたが、晴信に命を救われ以来徐々に信頼を寄せることとなる。基本的に生真面目規律を守る性格だが、いざというとき人命を救うため、嵐の海飛び出す度胸備えている。

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