山田右衛門作とは? わかりやすく解説

やまだうえもんさく 【山田右衛門作】

江戸前期キリシタン有馬氏旧臣西洋画学び肥前口之津で絵を売り生活。島原の乱参加し落城一人残り江戸で暮らす。籠城中に聖杯旗」を描く。のち死刑。(一五九〇?~一六五五?)

山田右衛門作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 14:28 UTC 版)

山田 右衛門作(やまだ えもさく、生没年未詳[1])は、江戸時代前期の人物。島原の乱において原城に立て篭もった一揆勢の中で唯一の生存者(諸説あり)として知られる。号は祐庵、古庵。

概要

「天草四郎陣中旗」
(伝山田右衛門作)

幼いときにポルトガル人に西洋画法を習い、お抱え南蛮絵師として島原藩有馬直純松倉重政松倉勝家に仕えていた。有馬直純がキリシタン信仰を棄教して自ら願って日向の縣(県)藩(あがたはん)に転封したため浪人となり、その後松倉家に絵師として仕えたという。島原の乱が発生したときには口之津に庄屋として住んでおり、妻子を人質としてとられたため村人全員とともに城に立て篭もった。城内では天草四郎につぐ副将であり、本丸を守備。幕府軍に対し700ほどの兵を率いていると自称している[2]。「天草四郎陣中旗」(天草切支丹館蔵、国の重要文化財)を描いたのも山田であるという[3]

幕府軍との交渉のための矢文の文章の作成もしており、その役目を利用して幕府軍に内通した[4]

原城に籠城中の寛永15年2月3日(西暦1638年3月18日)に有馬直純の家臣である有馬五郎左衛門と一揆の解決を話し合うために大江浜で会見した[5]。それ以降も内通を繰り返した[6][7][注釈 1]

幕府軍とひそかに交わした矢文が拾われ、内通が発覚して原城天草丸の有馬牢に入れられるも、間もなく落城。落城の際は幕府軍鍋島の者に斬られかけたが、矢文を見せたことで助命され生き延びた。しかし、幕府軍の総攻撃直前に妻子は一揆勢に本丸枡形で斬られた[10]

乱の終結後は江戸に連行され、幕府軍の取調べを受けた。その際の口上書(『山田右衛門作口書』)は、城内での様子を知る貴重な資料となっている[注釈 2]

その後はキリシタン目明しとして江戸で暮らしたという。一説では、最後は再びキリシタンに立ち帰り、帰郷した後に長崎で病死したとも、海外(東南アジア)へ渡航した後に現地で没したとも言われるが、詳細は不明である。

逸話

  • 明暦の大火以降、火の元の取り締まりが厳重になる中で、松平信綱家中においても屋敷内の番所における喫煙を固く禁じた。しかしある時、蔵の番人がアワビの殻に火を入れてきてたばこを吸い、番所の畳を焦がした。これを知った信綱は激怒し、番人を斬刑に処した。信綱は、どれだけ厳しく申し付けても忘れられ、同じことがまた起きると考え、目明しだった山田に「番人がたばこを吸って畳を焦がした場面」と「番人が処刑される場面」を描かせ、それを屋敷内の人通りが多い場所に立てかけた。その絵の真に迫った描写から、人々は強く戒めるようになったという[12][13]

住居跡・供養塔

南島原市口之津町に山田右衛門作の住居跡および供養塔がある。供養塔の高さは、70cm、幅は最大63cmである。前面に円紋があり、その内側に紋が刻まれている。建立年代は不明である[6][14]

脚注

注釈

  1. ^ 2月1日(西暦1638年3月16日)の午前10時ごろ、熊本藩細川忠利)・柳川藩(立花忠茂)・久留米藩(有馬豊)の仕寄場[8]から合計15本の矢文が原城内に射られた。返事の矢文が翌日の夜にあった。これにより、2月3日に大江の浜で両軍がみまもる中、会談が行われた[9]
  2. ^ 右衛門作は松平伊豆守によって松倉勝家に預けられた。有馬直純の申し出により引き取られた。寛永15年3月2日夜、有馬陣所で有馬五郎左衛門に再会した。その後、右衛門作は松平伊豆守に連れられて江戸に行き、5月12日に江戸に着き、伊豆守の邸宅に住んだ[11]

出典

  1. ^ 山田右衛門作」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%BD%9Cコトバンクより2022年11月20日閲覧 
  2. ^ 『歴史への招待』 20巻、日本放送出版協会、1982年1月1日。 
  3. ^ 竹村覚 1964, pp. 244–247.
  4. ^ 国書データベース 『肥前嶋原記』 画面78頁の60頁目、「山田右衛門作 矢文ノ事」 (所蔵者:川崎市市民ミュージアム 「池上家文書 歴史・地理14」)
  5. ^ 南島原市 (2022年8月2日). “島原天草一揆の経過” (PDF). https://www.city.minamishimabara.lg.jp/. 2025年3月25日閲覧。
  6. ^ a b 中山和子 2021, p. 07.
  7. ^ 吉村 2017, pp. 249–250.
  8. ^ 島根大学附属図書館 デジタルアーカイブ 「天草原之城攻諸手仕寄場惣絵図」
  9. ^ 吉村 2017, p. 250.
  10. ^ 神田千里 2018, pp. 205–207.
  11. ^ 五野井隆史 2014, p. 254.
  12. ^ 近藤瓶城 編「信綱記」『改定史籍集覧』 第26巻、近藤出版部、1907年、132頁。NDLJP:1920433/71 
  13. ^ 穂積陳重『法窓夜話』岩波書店岩波文庫 ; 青(33)-147-1〉、1980年、67-68頁。ISBN 4003314719 
  14. ^ Google Maps – 山田右衛門作 住居跡 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2025年4月28日閲覧

参考文献

  • 竹村覚『キリシタン遺物の研究』開文社、1964年6月10日。 
  • 吉村豊雄『百姓たちの戦争』 1巻、清文堂出版〈歴史ルポルタジュ 島原の乱〉、2017年11月20日。 ISBN 978-4-7924-1073-5 
  • 神田千里『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年8月10日。 ISBN 978-4-06-511727-9 
  • 煎本増夫『島原・天草の乱』新人物往来社、2010年1月20日。 ISBN 978-4-404-03803-6 

関連項目

  • 村山知義 - 島原の乱での山田を主題とした戯曲「終末の刻(とき)」(『村山知義戯曲集』下巻(新日本出版社、1971年)所収)がある。

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