天正遣欧少年使節
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天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)にキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
- 1 天正遣欧少年使節とは
- 2 天正遣欧少年使節の概要
天正遣欧少年使節
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「戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜」の記事における「天正遣欧少年使節」の解説
2010年7月 - 10月に登場。九州のキリシタン大名がプロデュースする4人組の男性アイドルユニット。曲名は「GO!天正遣欧少年使節」。コンセプトは「ヨーロッパで大ヒットしたアイドルが堂々の凱旋」。公開収録中に突然「解散宣言」し、その後4人は数奇な運命を辿ったという。伊東マンショ:相葉弘樹 千々石ミゲル:村井良大 原マルチノ:菊田大輔 中浦ジュリアン:井深克彦
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天正遣欧少年使節
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「世界史ちゃんTV 〜何となく歴史が学べるVTR〜」の記事における「天正遣欧少年使節」の解説
2日目に登場。戦国鍋にも同様のユニットがあるが、一部キャストが変更されており、企画立案者の織田信長が「信長と蘭丸」として再登場した。エンディングでは信長と蘭丸の新曲も披露された。 天正遣欧少年使節伊東マンショ:井上正大 千々石ミゲル:前山剛久 中浦ジュリアン:三浦涼介 原マルティノ:福山翔大 曲名は「棚からばてれん」 信長と蘭丸織田信長:村井良大 森蘭丸:須賀健太 曲名は「敦盛2015」
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天正遣欧少年使節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:14 UTC 版)
詳細は「天正遣欧少年使節」を参照 イエズス会の巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州のキリシタン大名・大村純忠などに提案して、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣することを企画した。そこでセミナリヨで学んでいたジュリアンを含む4人の少年たちが選び出され、ジュリアンは副使となったのである。 1582年(天正10年)2月20日、長崎を出帆してローマへ向かった13~14歳の4人の使節は、3年もの長旅を終えて1585年3月22日夜にローマのイエズス会本部の宿舎に到着し、翌23日にローマ教皇・グレゴリウス13世と謁見した。ところが、ジュリアンはローマ到着直前の3月19日に、当時の中央イタリアで流行していた伝染病で間欠的に発病する三日熱にかかり高熱のため宿舎で病臥していた。枢機卿会議での公式謁見予定日の23日には重病だったが、皆の静養の勧めを押し切って謁見に臨んだ。 これに対し、ジュリアンの病状を気遣った教皇は公式謁見前にジュリアン一人だけのための特別謁見を行っており、彼を抱擁して祝福しながら、慈愛に満ちた言葉で宿舎に帰って静養するように優しく言い聞かせた。ジュリアンはこれに従い公式謁見は欠席したが、4人の使節の中で最初に謁見するという特別な栄誉を与えられた。謁見後も教皇はジュリアンの容態を毎日気遣い、自身の主治医にジュリアンの治療をさせたので、病状は快方に向かった。一方、教皇は謁見から1週間ほどで病気になり、半月後の4月10日に帰天したが、臨終に際してジュリアンの体調を気遣う言葉を残した。 4月24日にシクストゥス5世が新教皇に選ばれ、ジュリアンを含む4人の使節は26日に教皇に招かれ、謁見した。5月1日の教皇の戴冠式ではジュリアンは体調がすぐれず欠席したが、5月5日のローマ司教座があるラテラノ大聖堂への教皇行幸には、バチカン図書館にある壁画「教皇シクストゥス5世のラテラノ教会行幸図」のとおり、4人全員が馬に乗って行列に加わっており、この日からジュリアンが再び他の使節と共に行動したのである。また、5月10日午前にはローマ市議会に招かれて名誉あるローマ市民権が与えられ、午後には教皇により聖ペトロ騎士団の騎士に列せられるという格別な栄誉を授かった。 フィレンツェのメディチ家文書館にある中浦ジュリアンの市民権証書の写しには、「ローマ元老院は、肥前国中浦の名門ドン・ジングロウ(甚五郎)の子にあたる顕栄なるドン・ジュリアンは勿論のこと、その子々孫々に至るまで、ローマの市民権を与え、ローマ貴族の名簿に加え、同時にローマ元老院に列席し、意見を述べ、投票し、公役を遂行し、その他すべてのローマ出身の貴族や市民が有する名誉・恩恵・特権・免除などを与える」という栄えある処遇を受けたのである。 ジュリアンはポルトガルやスペインを経て、ローマに至るまでのイタリア各地訪問の往路では健康であったが、ローマ到着直前から三日熱の発病を繰り返して体調不良が続き、復路のイタリアのフェラーラやミラノ、スペインのバルセロナ訪問時にも再発した。そのため、使節として十分な訪問活動ができないこともあったが、その都度多くの人々の厚意に助けられた。このことが、ローマ教皇やキリスト教に対して深い崇敬の念を抱くことになり、後の殉教に至ったとされている。
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