天正長大判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 08:50 UTC 版)
墨書きは「拾両後藤(花押)」で年号表示は無く五代後藤徳乗のものであり、上下左右に丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印があり、亀甲枠については有る無し、双方が存在する。大判の中でもサイズが特に大きく縦17センチメートル以上のものとされ長大判と呼ばれる。 サイズが大きく見栄えのするものであることから、豊臣秀吉が天正17年5月(1589年)に太閤の金賦りで与えたものは長大判であるとする説もあるが、これは菱大判の鋳造時期であり長大判の初鋳が文禄4年(1595年)であるならば矛盾し疑問である。 裏面中央に澤瀉紋、亀甲桐紋、花押の極印が打たれた澤瀉大判(おもだかおおばん)は秀吉が毛利輝元に後藤家で大判を作製することを許したと推定する説もあるが定かでない。 鋳造高は文禄4年5月から慶長2年2月(1597年)までは、約3万枚と推定され、慶長3年3月(1598年)から5年2月(1600年)までは23,963枚である。 『金融研究』巻頭エッセイ 第1シリーズ 「貨幣の歴史」 天正大判-豊臣秀吉の金銀貨- わが国の貨幣史 豊臣秀吉の金銀貨
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