天正年間の大友・島津の関係とは? わかりやすく解説

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天正年間の大友・島津の関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 05:43 UTC 版)

豊薩合戦」の記事における「天正年間の大友・島津の関係」の解説

天正6年1578年10月大友家当主大友義統隠居の父・宗麟は日向伊東義祐要請受けて大軍率いて南下開始した。しかし日向高城川小丸川)で島津義久軍に敗北し佐伯惟教・惟直父子吉岡鎮興ら多く将兵を失うこととなり、宗麟らは豊後一時後退した耳川の戦い)。 この敗北で、それまで大友家従属していた肥前龍造寺隆信離反して自立したまた、筑前でも秋月種実筑紫広門らが離反して島津家転じた。さらに大友庶家重鎮である田原親宏田原親貫田北紹鉄らも大友家に対して反乱起こしこれまで豊後筑前肥前筑後豊前肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱起こった一方島津家耳川勝利を契機薩摩大隅日向一部押さえ肥後にも手を伸ばし始めるなど、大友家対す圧迫強めていた。これに対し大友家では、領内反乱相次いでいるため単独対抗できなかったので、当時中央勢力広げていた織田信長接近していき、大分府内城退去した後も屈強抵抗し各地島津軍撃退している。天正7年1579年)には信長通じて義統の官位叙任してもらい、天正8年1580年)には信長仲介のもと、義久との間に「豊薩和睦之儀」を成立させた。 だが、天正10年1582年6月本能寺の変信長明智光秀謀反によって自害すると豊薩和睦消滅天正12年1584年3月には隆信島津軍敗れて戦死し沖田畷の戦い)、嫡男政家島津家降り耳川以降成立していた大友氏龍造寺氏島津氏九州三者鼎立時代終焉した。大友氏島津氏九州覇権を争う二者並立時代となった隆信戦死後、宗麟は島津家勢力伸張抑えるため、立花道雪高橋紹運らの筑前勢を筑後進出させた。これに対して義久大友家従属する肥後阿蘇氏攻撃阿蘇合戦)、また種実龍造寺家晴らを筑後進出させて道らと高良山対陣させた。だが、この対陣中の天正13年1585年9月11日、道高齢のために陣没し、大友軍は筑前撤退する。道の死は家運が傾いた大友家大黒柱崩壊であったこのため、宗麟は中央信長天下統一事業受け継いでいた豊臣秀吉臣従を誓うことで援軍要請。だが、秀吉三河徳川家康交戦状態だったため、当時援軍派遣することは不可能な状態にあった。そのため、秀吉信長同じよう政治的に仲介することで豊薩和睦行なおうとした。 当時豊臣秀吉公家五摂家のひとつと言われる近衛氏猶子であり、また島津氏1185年以来近衛氏荘官であったにもかかわらず義久和睦断った

※この「天正年間の大友・島津の関係」の解説は、「豊薩合戦」の解説の一部です。
「天正年間の大友・島津の関係」を含む「豊薩合戦」の記事については、「豊薩合戦」の概要を参照ください。

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