天正年間の大友・島津の関係
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「豊薩合戦」の記事における「天正年間の大友・島津の関係」の解説
天正6年(1578年)10月、大友家当主・大友義統と隠居の父・宗麟は日向の伊東義祐の要請を受けて大軍を率いて南下を開始した。しかし日向高城川(小丸川)で島津義久軍に敗北し佐伯惟教・惟直父子や吉岡鎮興ら多くの将兵を失うこととなり、宗麟らは豊後に一時後退した(耳川の戦い)。 この敗北で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立した。また、筑前でも秋月種実や筑紫広門らが離反して島津家に転じた。さらに大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こった。 一方、島津家は耳川の勝利を契機に薩摩・大隅・日向の一部を押さえ、肥後にも手を伸ばし始めるなど、大友家に対する圧迫を強めていた。これに対し大友家では、領内で反乱が相次いでいるため単独で対抗できなかったので、当時中央で勢力を広げていた織田信長に接近していき、大分府内城を退去した後も屈強に抵抗し各地で島津軍を撃退している。天正7年(1579年)には信長を通じて義統の官位を叙任してもらい、天正8年(1580年)には信長の仲介のもと、義久との間に「豊薩和睦之儀」を成立させた。 だが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自害すると豊薩和睦は消滅、天正12年(1584年)3月には隆信が島津軍に敗れて戦死し(沖田畷の戦い)、嫡男の政家が島津家に降り耳川以降に成立していた大友氏・龍造寺氏・島津氏の九州三者鼎立時代は終焉した。大友氏と島津氏が九州の覇権を争う二者並立時代となった。 隆信の戦死後、宗麟は島津家の勢力伸張を抑えるため、立花道雪・高橋紹運らの筑前勢を筑後に進出させた。これに対して義久は大友家に従属する肥後の阿蘇氏を攻撃(阿蘇合戦)、また種実や龍造寺家晴らを筑後に進出させて道雪らと高良山で対陣させた。だが、この対陣中の天正13年(1585年)9月11日、道雪が高齢のために陣没し、大友軍は筑前に撤退する。道雪の死は家運が傾いた大友家の大黒柱の崩壊であった。このため、宗麟は中央で信長の天下統一事業を受け継いでいた豊臣秀吉に臣従を誓うことで援軍を要請。だが、秀吉は三河の徳川家康と交戦状態だったため、当時は援軍を派遣することは不可能な状態にあった。そのため、秀吉は信長と同じように政治的に仲介することで豊薩和睦を行なおうとした。 当時の豊臣秀吉は公家五摂家のひとつと言われる近衛氏の猶子であり、また島津氏は1185年以来、近衛氏の荘官であったにもかかわらず、義久は和睦を断った。
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