天正大地震発生前後の状況と地震による影響
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「小牧・長久手の戦い」の記事における「天正大地震発生前後の状況と地震による影響」の解説
家康と講和した後も、秀吉は再戦に向け、1年以上かけて態勢を整えていった。秀吉包囲網が瓦解していくのと同時期に、秀吉は、二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、天正13年(1585年)7月、近衛前久の猶子となって、関白宣下を受けた。また、美濃国大垣城に15万人の大軍のための兵糧を備蓄。地位、戦力共に家康を圧倒し、いつ決戦に臨んでもよいところまで体勢を整えていった。 一方の家康は、天正壬午の乱の後、北条氏と結んだ同盟条件に基づく上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲で、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸と対立。昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗し、これに手を焼いていた(第一次上田合戦)。またこの頃、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、一時重篤に陥っている。 さらに、実はこの頃、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて起こった地震や大雨に戦役の負担が重なって、領国経営に深刻な影響が出ていた。特に天正11年(1583年)5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」(家忠日記)に見舞われていた。その状況下で豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られていた。 こうした中、天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家の実質ナンバー2だった石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。このような状況から家康は当時、風前の灯だと見られていた。 ところが天正13年11月29日(1586年1月18日)、日本列島中央部を「天正大地震」が襲う。マグニチュード(M)8クラス、最大震度6だったとされる。この時の地震による被害としては、富山県高岡市の木舟城は陥没し、城主・前田秀継(利家の弟)が死亡。飛騨国大野郡(現在の岐阜県白川村)の帰雲城も城下もろとも埋没し、このため城主内ヶ島氏一族が滅亡。このように被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。このとき秀吉は近江国坂本城にいたが、あまりの恐ろしさにすぐに大坂城に逃げ帰ったという。 国際日本文化研究センターの磯田道史・准教授は「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、この地震を「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」だったと指摘。この地震がなければ、家康は2カ月後に秀吉の大軍から総攻撃を受けるはずだったとしている。天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で局地戦では勝った家康だが、その後の秀吉は秀吉包囲網を瓦解させ、紀州や四国など版図を飛躍的に拡大し、彼我の軍事力には大きな差がついていた。戦争に突入すればその後の後北条氏のように、家康には滅亡の可能性すらあっただろう。ところが震災によって、秀吉の対家康前線基地である大垣城が全壊焼失、同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したという。秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・伊勢地方の被害が大きく、戦争準備どころではなくなっていた。 一方の家康側は、この地震により岡崎城が被災したが、領国内は震度4以下だったという。もっとも天正大地震以前に大雨や小牧・長久手の戦い等への領民動員で徳川氏の領国は荒廃しており、家康にしても豊臣政権との戦いどころではなかった。 地震後も秀吉は東美濃・信濃方面からの家康征伐を計画していたが、程なくこれも中止して和解路線に転じた。また最も被害を受けた信雄が岡崎に出向く等交渉に本腰を入れた結果、1年近くにわたる交渉を経て旭姫との婚姻、更には上洛中の大政所人質を条件に天正14年(1586年)10月27日、家康は上洛して大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。豊臣政権ナンバー2の座を確保し、将来に備えることとなる。
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