豊臣氏に臣従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:46 UTC 版)
天正14年(1586年)、上杉氏が豊臣氏に臣従。能元は内政手腕に優れていたため、景勝が領国を留守にする際には、政務を任せられるようになる。また、文禄元年(1592年)に文禄の役が起こると、藤田信吉と共に越後春日山城の留守居役を務めた。なお、泉沢久秀が作成した『文禄三年定納員数目録』によると、この頃の能元の知行高は2474石であった。 慶長3年(1598年)、上杉氏が会津120万石へ国替えになると、浅香城と二本松城の守備を命じられる。この頃の能元の知行高は11000石で、同時に岩井信能、大石綱元と共に会津三奉行に任ぜられ、その筆頭となる。伏見城に在城していた景勝から神指城の築城、道橋の普請、浪人の召抱え、武具の整備などを命じられた。この頃、上杉氏に仕官した前田利益と親交を結んでいる。
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