豊臣氏の刀狩令
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豊臣秀吉が1588年(天正16年)に発した刀狩令は次の3か条からなる。 第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。 第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。 第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。また、没収された武器類は方広寺大仏殿(京の大仏)の材料とすることが喧伝された。 この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と淡路国の加藤嘉明などの近侍大名・武将の一部、畿内・近国と主要寺社に限られる。だが、豊臣政権の法令は、天正18年(1590年)8月10日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた。 秀吉は、関白就任3か月前の1585年(天正13年)3月から4月に根来衆・雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。 『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。 ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国(佐賀県、長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。 ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている。刀狩りは、1人当たり大小1腰を差し出せという実行形態も多いし、調べの後すぐに所持が許可された例も多く、中世農民の帯刀権をはく奪する象徴的な意味で行われたと思われ、これにより百姓の帯刀を免許制にするという建前を作りだすことに重点があった。そのため、刀狩の多くは武家側が村に乗り込むのではなく村任せで実行されたケースが多い。 秀吉は、刀狩に先行して、1587年(天正15年)ごろ、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止した(喧嘩停止令)。それまでの日本では多くの一般民衆が武器を所持しており、特に成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の水利や里山、草地などの権利や、他の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあったがそれらを防止した。この施策は江戸幕府にも継承された。 さらに、天下統一後の1590年(天正18年)「浪人停止令」で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出したが、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示した。一方、武家奉公人の農村内での武器の所持を例外として認めていた。 以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、農村内の武器の存在を前提としながら、百姓身分から帯刀権を奪い、その武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。そもそも当時は厳格な身分制度は確立しておらず、武士と一般民衆の区別は存在しない。惣村の有力者の多くが国人領主と主従関係を結んで地侍になっており、当時の一揆は、農民蜂起とも、武士による叛乱とも区別がつきにくいものである。その区別が生まれたのが、刀狩令以降である。
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