豊臣氏の組織とは? わかりやすく解説

豊臣氏の組織

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:43 UTC 版)

豊臣氏」の記事における「豊臣氏の組織」の解説

すでに平安時代には解体し形骸化していた氏であるが、藤氏長者源氏長者などの役職氏爵などの慣習儀礼的に存続していた。秀吉も、関白就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者兼ねている豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで氏長者設置している。「豊氏長者」(ほうしのちょうじゃ)である。天正19年1591年12月秀吉養子羽柴秀次関白譲った際に、関白任命ともなって作成され各種官位叙任文書が『足守木下家文書』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者補任する内容を持つ宣旨含まれている。秀吉関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、秀吉も豊氏長者地位にあったものと考えられる[要出典]。 なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者地位権限をも掌握していた。秀吉関白就任する際、近衛家に対して将来的には前久の子息信輔に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのであるそのこと誇示するように[要出典]、秀吉豊臣改姓したあとの天正16年1588年1月に、藤原氏氏神春日社最高責任者一人である正預職任命権行使している。また、天正16年1588年12月には、藤原氏始祖藤原鎌足祀る多武峯寺に、弟羽柴秀長居城のある郡山への遷宮命じ実行移している。このとき用いられ命令文書は、本来は藤原氏大学別曹である勧学院別当弁官務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者意志奉じて発給する奉書である長者宣藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、藤原北家勧修寺流属す右中弁中御門資胤であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者補する宣旨のほか、藤氏長者意味する氏長者」に補す旨の宣旨別途作成されている。

※この「豊臣氏の組織」の解説は、「豊臣氏」の解説の一部です。
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