豊臣秀吉との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「ガスパール・コエリョ」の記事における「豊臣秀吉との関係」の解説
詳細は「バテレン追放令」および「ポルトガルの奴隷貿易」を参照 豊臣秀吉は1582年から1591年までの9年間の軍事行動によって日本を統一した。イエズス会の宣教師は1583年に秀吉の大阪に初めて到着、大阪城にはその後キリスト教に興味を持つ女性を含む多くの日本人がいた 。1586年(天正14年)には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。イエズス会への許可は、当時の仏教徒への許可より優遇されたものだった。 天正14年(1586年)3月 『日本西教史』によると、秀吉はガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟豊臣秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言った。秀吉は明侵略だけでなく先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした。 翌1587年(天正15年)6月19日、秀吉は仏教僧としてキリスト教との対立に動いていた施薬院全宗より讒言を受け、コエリョとの会食後、重臣達が出席した御前会議で布教責任者であるコエリョに、神社仏閣を破壊し、仏僧を迫害すること、ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売ったことなどを詰問し、翌日にはバテレン追放令を発布した(発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚から削除されている)。『イエズス会日本年報・下』には「秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである」と書かれている。また日本人が売られる様子は、秀吉の右筆、元僧侶である大村由己の『九州御動座記』では、ポルトガル船内部の目撃情報や奴隷数については誇張があるものの、生々しく記されている。天正少年使節もモザンビークで日本人の男女が奴隷として売られているのを目の当たりにして憤っていたとの記録がある。[要検証 – ノート] 「天正遣欧少年使節」も参照 こうした日本人奴隷の資料とされるものは『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っているが、いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の道徳の退廃によって同国人を売ることやポルトガル商人を批判するために実際には存在しえない対話が掲載されている。 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。 牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。 ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であるため、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。記述にフィクションを含んでおり資料の正確性に問題があるとの指摘がなされている。 宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。 司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた。仏教説話集『沙石集』には生き肝を薬とする説話があり仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。 また1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり、グレゴリオ・デ・セスペデスが宣教師として初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。 ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている。 コエリョ自身もヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれで平戸から出航し、博多にいる秀吉に見せるという行為を行った。高山右近や小西行長がこの行為を懸念し、コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めたが、これに全く応じなかった。ヴァリニャーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした挑発的な行為に主な原因を求められるとしている。 その間、全国のイエズス会員たちを平戸に集結させ、公然の宣教活動を控えさせることにした。コエリョは1590年(天正19年)に肥前国加津佐で没した。ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払い、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている(ただしヴァリニャーノも程度の差こそあれ、かつては彼と同様にキリシタン大名へ支援することは考えていた)[要出典]。 1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した。秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し、豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した。
※この「豊臣秀吉との関係」の解説は、「ガスパール・コエリョ」の解説の一部です。
「豊臣秀吉との関係」を含む「ガスパール・コエリョ」の記事については、「ガスパール・コエリョ」の概要を参照ください。
- 豊臣秀吉との関係のページへのリンク