豊臣秀吉と明王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
1573年に室町幕府を京都から追放させた織田信長は延暦寺を焼き払うなど寺社勢力に対しては、政教分離の方針で臨み、また、キリスト教に対しては寛容な政策を採った。信長は本能寺の変で自害、その後山崎の戦いで明智光秀を討って信長の政策を継承した豊臣秀吉は荘園を完全に消滅させ、刀狩で兵農分離を明確にして、生野銀山・石見銀山などの鉱山を直轄した。1587年の九州征伐後はバテレン追放令でキリスト教を禁止とするも、南蛮貿易は積極的に続けた。また、秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ・アユタヤ・パタニになどに派遣したとされる。 日本を統一した秀吉は「征明」を企て、対馬の宗氏を介して明と冊封関係にあった李氏朝鮮に征明への協力を求めたが交渉は決裂したため、1592年に朝鮮半島への侵攻を開始した(文禄の役)。日本軍が平壌を占領しようとすると、明は朝鮮からの要請に応じて、明は平壌を「朝鮮の地であるが、明の領内でもある」とし、明軍の派遣を決定する。明・朝鮮連合軍と日本軍は幾多の戦いを経て膠着。一時休戦をして明との講和を試みるが、交渉は決裂する。秀吉は、1597年の慶長の役で再び出兵するが、翌年に秀吉が死んで日本側は撤兵する。
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