豊臣秀吉とキリスト教とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 豊臣秀吉とキリスト教の意味・解説 

豊臣秀吉とキリスト教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「豊臣秀吉とキリスト教」の解説

ポルトガルの奴隷貿易」も参照 織田信長宣教師たちに対して好意的であった信長の後を継いだ豊臣秀吉基本的に信長政策継承し宣教師に対して寛大であった。 しかし、秀吉天下統一目前1587年九州征伐途上宣教師キリシタン大名によって多数神社や寺が焼かれ仏教徒迫害受けていることを知りまた、日本人ポルトガル商人によって奴隷として海外売られていたこと、そして最大要因である長崎イエズス会領となり且つ要塞化されていることなどを理由とし九州征伐完了直後筑前箱崎において、秀吉謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョ対しバテレン追放令発布し宣教師国外退去命令キリスト教宣教制限表明した(この時、秀吉バテレン追放令発布した理由については、さまざまな説がある。詳細バテレン追放令の項を参照)。 これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名秀吉敵対するよう要請、さらに武器弾薬支援約束した。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉敵対する気はなく、この要請実現されなかった。以後イエズス会秀吉刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる一方秀吉追放令発布こそしたが、以後実質キリシタン黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉ポルトガル通じて南蛮貿易積極であったため、追放令徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師たち立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動続けていた。 しかし、豊臣政権末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながり生まれフランシスコ会ドミニコ会などの修道会来日するうになる事態複雑化する。彼らは日本宣教において、当時イエズス会の(社会的に影響力を持つ人々積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチ試み貧し人々の中へ入って直接宣教試みた。けれども、これらの修道会イエズス会のように日本文化適応する政策をとらずに秀吉刺激した(たとえば日本では服装によって判断される考えたイエズス会員の方針異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服こだわった)ことや、イエズス会とこれら後発修道会対立激化したことで、日本での宣教師の立場徐々に悪化していく。 そして1596年サン=フェリペ号事件きっかけに、秀吉キリスト教への態度硬化させ、1597年当時スペイン庇護によって京都活動していたフランシスコ会系の宣教師たち捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉指示による最初キリスト教への迫害であり、司祭信徒あわせて26人が長崎処刑された(日本二十六聖人殉教)。

※この「豊臣秀吉とキリスト教」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
「豊臣秀吉とキリスト教」を含む「日本のキリスト教史」の記事については、「日本のキリスト教史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「豊臣秀吉とキリスト教」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「豊臣秀吉とキリスト教」の関連用語

豊臣秀吉とキリスト教のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



豊臣秀吉とキリスト教のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本のキリスト教史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS