豊臣氏家臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 03:38 UTC 版)
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、森長可の要請を受けて秀吉方に参加し、600騎を率いて長可と合流し三河国中入りの部隊の第二陣へと組み込まれている。しかし、中入りの部隊は徳川家康との戦いに惨敗し、第二陣の大将の森長可討ち死の報が入ると慶隆は撤退を決意し、辛うじて逃げ延びたものの遠藤弥九郎・餌取伝次郎・日置主計・猪俣五平治・和田仁兵衛ら遠藤家に仕えた多くの家臣が身代わりとなって命を失う結果となった[要出典]。 天正13年(1585年)、秀吉の秀吉の紀州攻めに、胤基と共に従う。同年8月、飛騨の三木自綱征伐を命ぜられた金森長近・可重(長近養子で慶隆の娘婿)に、弟慶直と共に従軍し、自綱を降して三木氏を滅ぼした。天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐に胤基と共に参加。翌16年(1588年)に秀吉が聚楽第を造営すると、慶隆・胤基は西京口に居所を与えられ、妻子と共に上京した。 天正16年(1588年)、立花山の戦いなどで秀吉に反抗したことを理由に、両遠藤氏で2万余石あった領地を没収され、慶隆は小原7,500石、胤基は犬地5,500石に減封された。このため遠藤氏は家臣を養うのが困難となり、全家臣の三分の一は他家に仕えたり、帰農したり、浪人したりした。慶隆転封後の八幡城には、稲葉貞通が郡上に武儀郡津保谷を加えた4万石で入っている。なお、郡上が貞通に渡された後、両遠藤は替地の所領を貰えず関へ行き、町人加取善左衛門の家を借りて住んでいたところ、太閤検地にやって来た小野木縫殿助と寺西筑後に出会い、代地の依頼をした。上洛した二人がこれを秀吉に伝え、ようやく小原・犬地の地を得て、天正18年(1590年)に引っ越すことができたともいう。 同18年(1590年)、小田原征伐に胤基と900余の兵を率いて参加。秀吉が引き続き会津へ遠征すると、慶隆・胤基はこれにも従軍した。文禄元年(1592年)、文禄の役に胤基と共に100余人の兵を連れて織田秀信の下に属し、釜山・梁山・蔚山・鎮守城などを転戦しながら、2年間朝鮮に在陣した後帰国した。だが、胤基は長門国国分寺で病死し、胤直(胤基の弟の胤重の子)が後を継いだ。 慶長3年(1598年)、伏見城普請に胤直と用木を東美濃から切り出して上京し、落成後に狼谷口に両遠藤氏の居所を与えられた。同年8月、豊臣秀吉が死去すると、形見として三原の腰刀を拝領した。 慶長5年(1600年)、石田三成が徳川家康打倒の兵を挙げると、美濃では岐阜城主織田秀信が三成の西軍に加担し、八幡城主稲葉貞通は家康西上阻止のため犬山城に入った。慶隆は胤直と共に岐阜城に招かれ、秀信に西軍加担を勧誘されたが、小原に戻ると弟慶胤と相談し東軍加担を決めた。だが、胤直は西軍に加担したため、慶隆は子の慶勝をこれに備えさせた。慶隆は家康に八幡城奪還を願い出て許可され、江戸から飛騨に戻った金森可重と共に貞通が留守の八幡城を攻めた(八幡城の合戦)。激戦の末、城側が降伏して和議が成立したところへ、家康から郡上一円の安堵状も届いた。ところが、急報を受け帰還した貞通に急襲され、今度は慶隆が敗走するも、再度和議が成立。慶隆は胤直も降伏させ、信濃在陣中の徳川秀忠に戦況報告の使者を送って感状を貰う一方、自身は赤坂(現大垣市)へ向かって、岡山本陣で家康に謁した。関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、稲葉貞通は豊後臼杵5万石に転封になり、11月に慶隆は八幡城主の座を取り戻すことに成功した。同月15日には慶胤が死去し、慶隆は全郡上郡2万7000石を領有することとなった。
※この「豊臣氏家臣」の解説は、「遠藤慶隆」の解説の一部です。
「豊臣氏家臣」を含む「遠藤慶隆」の記事については、「遠藤慶隆」の概要を参照ください。
- 豊臣氏家臣のページへのリンク